中日・ロドリゲスの亡命騒動で思い出す「お騒がせ助っ人たち」の迷言、奇行、武勇伝... (2ページ目)

  • 水道博●文 text by Suido Hiroshi
  • photo by Sankei Visual,Kyodo News

王貞治監督(写真左)も期待した超大物助っ人のケビン・ミッチェルだったが...王貞治監督(写真左)も期待した超大物助っ人のケビン・ミッチェルだったが...この記事に関連する写真を見る

【カネとともに去りぬ】

ケビン・ミッチェル(ダイエー)

 サンフランシスコ・ジャイアンツ時代の1989年に47本塁打、125打点でナ・リーグの二冠王に輝き、MVPを受賞したケビン・ミッチェル。来日前年の94年も、ストライキにより8月中旬から試合が中止となったが、それまで打率.326、30本塁打、77打点の好成績を残していた。

 ただ、ミッチェルはメジャー時代から"トラブルメーカー"として有名で、球団もそのことは百も承知だったが、95年は王貞治氏が新たに監督に就任したことで目玉がほしかった。94年までの通算220本塁打は、87年にヤクルトに入団したボブ・ホーナーの通算215本をしのぐバリバリの超大物メジャーリーガーだったのだ。

 そして95年、ミッチェルは西武の快速球エース・郭泰源から史上初の"開幕戦初打席満塁アーチ"の離れ業を演じ、翌日にもホームランを放つなど「さすが!」の活躍を見せた。

 しかし、それ以降はケガや病気を理由に欠場を繰り返し、2度の無断帰国。球団は愛想を尽かし、解雇を言い渡した。だがミッチェル劇場は終わらず、年俸が全額支払いにならなかったことから裁判を引き起こす。同姓のマーガレット・ミッチェルの小説『風とともに去りぬ』をもじり、「カネとともに去りぬ」とマスコミに揶揄された。

 ミッチェルはメジャー復帰後、3年間でわずか14本塁打で現役を引退。引退後も"トラブルメーカー"らしく暴力事件で2度逮捕されている。

2 / 5

厳選ピックアップ

キーワード

このページのトップに戻る