東尾修はデッドボールにも「なんで謝る必要があるんだ」石毛宏典が振り返るガキ大将な気質と、激攻め投球が生まれた理由
石毛宏典が語る黄金時代の西武(6)
東尾修 前編
(連載5:辻発彦は西武に入団してすぐバットを短く持つようになった。黄金世代の「鉄壁セカンド」が育つまで>>)
1980年代から1990年代にかけて黄金時代を築いた西武ライオンズ。同時期に在籍し、11度のリーグ優勝と8度の日本一を達成したチームリーダーの石毛宏典氏が、当時のチームメイトたちを振り返る。
前回の辻発彦に続く6人目は、長らく西武のエースとして活躍し、通算251勝を挙げた東尾修氏。1995年からは古巣・西武の監督を7シーズン務め、1997、98年とリーグを2連覇している。
前編では、東尾氏がエースにのし上がっていくきっかけ、内角を攻める強気のピッチングスタイルが構築された理由などを石毛氏に聞いた。
デッドボールを当てた近鉄のデービス(右)から暴行を受ける東尾氏この記事に関連する写真を見る
【「黒い霧事件」がきっかけで一軍へ】
――石毛さんから見た、東尾さんの現役時代の印象を教えてください。
石毛宏典(以下:石毛) トンビさん(東尾の愛称)は投げることはもちろん、守備もバッティングもうまいんです。非常にセンスを感じましたし、まさに"野球の申し子"といった印象でした。野球だけではなくゴルフも上手ですし、学問や商売など、あらゆる分野でうまくやれそうなセンスを持っている方だと思います。
――東尾さんが西鉄ライオンズ(現在の西武)に入団した頃は、二軍でも打ち込まれるなどプロのレベルについていけず、野手転向を首脳陣に申し出たそうですね。
石毛 そうですね。ただ、プロの壁にぶつかっていた頃に「黒い霧事件」(プロ野球関係者が八百長に関与したとされる事件)が発生し、当時の西鉄のエースだった池永正明さんらが球界から追放されました。一軍に主力ピッチャーが全然いなくなってしまって、トンビさんが突然投げることになったんですが、初めのうちは多くの登板機会を与えられても、若くて経験が浅かったこともあって勝てませんでした。
その後、どうやって勝てるピッチャーになれたのか。もともと、箕島高校時代から勝つための投球術が備わっていたのかはわかりませんが、「俺の勲章は負け数が多いことだ」とよく言っていたので、おそらくたくさん投げたことで、勝つために必要な投球術を身につけたんだと思います。
――その投球術とは?
石毛 球は速くないし、体もそんなに大きくないトンビさんは、どうやってこの世界で勝っていくかを考え抜いたと思うんです。それでスライダーとシュートを覚えて、「俺にはこれしかない。これが必要なんだ」と腹をくくって、インコースとアウトコースの出し入れも身につけていったんじゃないかと。
そういうことに気がついて取り組む選手はたくさんいるでしょうけど、結局はできなかった人も多いのがプロ野球の世界。それでもトンビさんができたのは、やはりセンスというか素地があったからでしょうね。
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著者プロフィール
浜田哲男 (はまだ・てつお)
千葉県出身。専修大学を卒業後、広告業界でのマーケティングプランナー・ライター業を経て独立。『ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)』の取材をはじめ、複数のスポーツ・エンタメ系メディアで企画・編集・執筆に携わる。『Sportiva(スポルティーバ)』で「野球人生を変えた名将の言動」を連載中。『カレーの世界史』(SBビジュアル新書)など幅広いジャンルでの編集協力も多数。