斎藤佑樹「大学で最強のメンバーをつくりたかった」 早実優勝メンバーの退部劇に「冷静でいられなかった」 (2ページ目)

  • 石田雄太●文 text by Ishida Yuta
  • photo by Sankei Visual

 でも、あの頃の僕にしてみれば、辞めていったみんなはつい半年前まで甲子園であれだけのプレーをしていたわけですから、大学でできないはずはないと思っていました。だから、みんなが辞めていくとなった時、冷静ではいられませんでしたね。

 船橋のことは、何度も止めましたし、神田だって止めました。それでも最終的に引き止めることはできなかった......船橋は「夏の甲子園で優勝はしたけど、オレたちは斎藤にそのレベルまで引き上げてもらっただけで、個人として考えた時、東京六大学でプレーするようなレベルじゃなかった」と言うんです。

 仮にそうだったとしても、でも、まだ4年間、あったわけじゃないですか。そこでの努力次第ではレギュラーになれると僕は思っていましたし、結論を出すのはまだ早いと思ったから、必死で止めたんです。

 僕は、あの夏を経験した早実のメンバーと一緒に、大学4年の春でも秋でもいいから、もう一度、優勝を味わいたかった。早実のメンバーがいて、さらに宇高(幸治)とか松永(弘樹)、大石(達也)や福井(優也)がいて、そこに早実の優勝メンバーが揃って、早稲田大学、最強のメンバーをつくりたかったんです。

【1年夏の地獄の2週間】

 早実の仲間とは甲子園で優勝して、神宮でも優勝したかった......それができなくなったというのは、ものすごく寂しかったですね。ただ、僕も1年ですから自分のことで精一杯でしたし、春に結果が出た分、秋も、というプレッシャーはありましたから、1年の夏はいろんな意味で大変でした。

 当時の早稲田の夏は東伏見での練習が続くんですが、とにかく走らされたという記憶があります。1週間で1000球投げるとか、1000本ノックとか、練習メニューはきつそうなものが多くて......。実際は1000本じゃなくて100本捕ったら終わりなんですが、でも100本捕るまでに1000本かかるみたいな感覚だったので、看板に偽りなしです(笑)。右に左に、とにかく振られるんですよ。

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