辻発彦が初対面の野村克也から言われたまさかのひと言に発奮。「ヤクルトには絶対に負けてたまるか!」 (3ページ目)

  • 水道博●文 text by Suido Hiroshi
  • photo by Sankei Visual

── ほかに思い出はありますか?

 ヤクルトの1年目、ユマキャンプから帰国して、宮崎・都城での広島とのオープン戦。そぼ降る雨のなか、野村監督が「辻の能力を見てみたい」と38歳でスタメン、フル出場することになってしまったんです(笑)。

 覚えているのは、その試合で生まれて初めてカウント3ボール0ストライクから打ちにいったことです。野村さんの野球って、そうじゃないですか。「甘い球なら初球から打ってもいい」とか「狙い球が外れたら見逃し三振でも構わない」とか。それで打ちにいって、タイミングはよかったけれど、ボールの下っ面を叩いてレフトフライ。ベンチに戻ると「辻よ、読みはドンピシャ。頭で勝ったけど、技術が伴わなかったな」と、野村監督から感想をいただいたことを今でもはっきりと覚えています。

── 96年のシーズンは、辻さんがセ・リーグ打率2位、97年は小早川毅彦(元広島)が巨人との開幕戦で斎藤雅樹から3打席連続本塁打、田畑一也(元ダイエー)が15勝。まさに「野村再生工場」の1年でした。

 ヤクルト1年目の96年は多くの試合に使っていただき、セ・リーグ打率2位の成績を残せました。また97年には、古巣・西武との日本シリーズも経験できました。しかし、その年、翌年と成績が落ち、40歳になった時にマスコミに「辻もそろそろ引退か」と噂されました。

── その時、野村監督はどんな反応でしたか。

 野村監督は「40歳までこのプロ野球界で頑張ってきた選手に対して、ワシの口から『もういいよ』とは言えない。リスペクトしなきゃ。辻が自ら辞めると言えば辞めればいいし、続けると言えば続けさせると」と。野村さん自身、45歳まで現役を続けた方なので、私の気持ちを察してくれたような気がします。

── 99年も現役としてプレーされました。

 98年のシーズン後に野村監督はヤクルトを辞め、阪神の監督になられるのですが、私は年賀状に<野村監督にいただいた1年。死ぬ気で頑張ります>と書きました。すると、「辻からうれしい年賀状がきたんだよ」と野村監督が話していたと、新聞記者の方に聞きました。僕自身は99年シーズンで現役を引退したのですが、ヤクルトでの4年間は本当に濃い時間を過ごさせていただきました。命日には、久しぶりに"野村ノート"を開いてみようと思います。

辻発彦(つじ・はつひこ)/1958年10月24日生まれ、佐賀県出身。佐賀東高を卒業後、日本通運を経て83年ドラフト2位で西武に入団。球界を代表する名二塁手として西武黄金時代を支えた。96年にヤクルトに移籍し、99年に現役引退。2000年からはヤクルト、02年から横浜(現・DeNA)、07年から11年と14年から16年は中日でそれぞれコーチ・二軍監督を経験し、17年より22年まで6年間、西武の監督を務め18年、19年と2年連続でパ・リーグ優勝に導いた

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