高校で野球を辞めるはずが...稲葉篤紀は「奇跡のセレクション」を経て法政大に入学し、球界を代表する好打者になった (3ページ目)

  • 石田雄太●文 text by Ishida Yuta
  • photo by Ichikawa Mitsuharu (Hikaru Studio)

── 法政と言えば「押忍」を使う、東京六大学で唯一の応援団が自慢だと聞いたことがあります。

稲葉 法政の応援団のみなさんは本当に一生懸命、応援してくれていました。でも、僕らが試合で負けると、応援団の下級生が走って帰らされていたんです。

── 野球部じゃなくて?

稲葉 そうなんです。そういう理不尽がまかり通る時代でしたからね。『おまえらの応援が足りないからだ』って......だから僕が下級生の時、同じ学年の応援団員から『頼むよ、勝ってくれよ』って、よく言われていました(笑)。

── 2年春にはヒザの靱帯を痛めて、稲葉さんは春のシーズンを棒に振ります。それでも2年秋に復帰を果たしました。

稲葉 2年の秋といえば、東大に負けたことが真っ先に浮かびます。僕が4番を打っていたのですが、東大に勝ち点を落としたのは40何年ぶりとかで、その当日、(山本泰)監督から部屋へ呼ばれて、こっぴどく叱られました。

── それが4年の秋には4番バッターとして法政をリーグ優勝に導きます。"血の法明戦"で宿敵・明治大学を下しての優勝でしたね。

稲葉 明治には同じ匂いを感じるんですよ。早慶は品がある大人の野球、東立はクレバーな野球、法明はとっぽくて血の気の多い野球(笑)。それまでの僕は優勝に縁がなく、負け続けていた野球人生でした。それが初めて優勝を味わいました。大学でも3年まではあまり勝てそうな雰囲気を感じませんでしたし、これはこのまま優勝できずに大学時代を終えてしまうのかなと思っていたんです。

 それが強い明治に勝ってのリーグ優勝でしたから、本当にうれしかった。明治は川上憲伸くんが1年生で、僕らとの試合にも投げてきたんじゃなかったかな......最後の最後、4年の秋に優勝してみんなで喜び合えたことは、僕にとっては特別なことでしたね。

── 優勝して、(野球部の寮があった)武蔵小杉で盛り上がったんですか。

稲葉 その日にどうしたのかは覚えていませんが、だいたい武蔵小杉の焼鳥屋さんに行って、もう一軒行って、というのがいつものコースでしたね。そういえば駅前の『中華一番』ってお店、今もあるのかな......あそこのナス味噌、おいしかったんですよね。また食べたいなぁ。


稲葉篤紀(いなば・あつのり)/1972年8月3日生まれ、愛知県出身。中京高(現・中京大中京)から法政大に進み、94年ドラフト3位でヤクルトに入団。入団1年目から出場機会を得て、97年と01年のリーグ優勝&日本一に貢献。05年にFAで日本ハムに移籍し、07年は首位打者と最多安打のタイトルを獲得。12年に通算2000安打を達成し、14年限りで現役を引退。21年の東京五輪では侍ジャパンの監督として金メダル獲得。同年10月に日本ハムGMに就任した。

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【あらすじ】荻島航平は"都立の星"と呼ばれた高校球児。
3年の夏を終え、次なる舞台として目指したのは
"神宮球場"を主戦場にする"都心6大学リーグ"だった。
猛勉強の末、池袋大学に入学した荻島だったが、
野球部の練習初日になんと"4軍"行きを命じられてしまう!
下剋上を目指す、荻島の"4軍くん"ストーリーが始まった!

【著者プロフィール】石田雄太(いしだ・ゆうた)

1964年生まれ、愛知県出身。青山学院大卒業後、NHKに入局し、「サンデースポーツ」などのディレクターを努める。1992年にNHKを退職し独立。『Nunber』『web Sportiva』を中心とした執筆活動とともに、スポーツ番組の構成・演出も行なっている。『桑田真澄 ピッチャーズバイブル』(集英社)『イチローイズム』(集英社)『大谷翔平 野球翔年Ⅰ日本編 2013-2018』(文藝春秋)など著者多数。

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