高校で野球を辞めるはずが...稲葉篤紀は「奇跡のセレクション」を経て法政大に入学し、球界を代表する好打者になった (2ページ目)

  • 石田雄太●文 text by Ishida Yuta
  • photo by Ichikawa Mitsuharu (Hikaru Studio)

── でも法政のセレクションを受けに行って、合格を勝ちとったんですよね。

稲葉 セレクションでちょっとした奇跡が起こったんです(笑)。僕はまず、甲子園に行けなかった組としてセレクションを受けました。そこで受かって、次は甲子園に出た組と一緒にもう一度セレクションを受けたのですが、夏の大会のあと、まったく身体を動かしていなかったこともあって、遠投で60メートルしか投げられませんでした。

 60メートルといえば僕が小学生の時に投げた距離ですよ。風がアゲンストだったこともありましたが、それにしてもあり得ない(苦笑)。これはダメだと思っていたら、バッティング練習になると、木のバットだったのにけっこうな数のホームランを打てました。なぜあの時にあんなに打てたのか、じつは今でもさっぱりわかりません......神風が吹いてくれたのかな(笑)。

── 法政のセレクションですから、錚々たるメンバーが揃っていたんですよね。

稲葉 甲子園にも出た、いわば全国でもトップレベルの同級生たちですから、『うわーっ、テレビで見たあの選手だ』という、レベルの高さを痛感させられました。そんななかでも合格をいただいて、実際に法政の野球部に入ったら、いやいや、山本浩二さん、田淵幸一さん、江川卓さん、小早川毅彦さん......ほかにも子どもの頃にテレビで見ていたプロ野球選手のOBの方々がたくさんいらっしゃるじゃないですか。そういう法政の歴史だけじゃなく、東京六大学野球の歴史にも驚かされました。これはすごいところに来ちゃったなと......僕は愛知の田舎育ちでしたから、東京六大学の雰囲気に圧倒されていましたね。

【4年最後の秋に念願の優勝】

── そんなふうに謙虚におっしゃいながら、しっかり1年の春には神宮デビューを果たしています。

稲葉 それはファーストのレギュラーだった先輩がケガをしたからで......当時は先輩方も怖くて厳しかったし、ついていくだけで必死でした。一人で東京へ出てきて、寮生活も初めて。1年生は4年生と相部屋で、洗濯から食事、マッサージまで身の回りの世話はすべてやらなければなりません。24時間365日、周りに気を遣い続ける生活はかなり大変でした。

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