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仰木彬の屈辱的な投手交代に「頭にきた」星野伸之。試合後、「一度お話をさせてもらえませんか?」と問い詰めた (3ページ目)

  • 浜田哲男●取材・文 text by Hamada Tetsuo
  • Photo by Kyodo News

――打線は日替わりオーダーでしたが、仰木監督は相手ピッチャーとの相性を重視して起用をしていた印象があります。

星野 当時のキャッチャーだった、若かりし頃の中嶋聡(現オリックス監督)はほとんどの試合で下位打線を任されていたんですが、一度だけ4番を任された時がありました。仰木さんは「4番を任せるからには、絶対にバントのサインは出さない。4番なんだからその気でいけ」とハッパをかけていました。結果、打ったかどうかはちょっと覚えていないのですが......それくらい思い切って、相性のいい投手に打者を当てていくんです。

――仰木監督は選手と積極的にコミュニケーションをとるタイプでしたか?

星野 選手たちの様子を見るためなのか、いつもグラウンドを歩いていました。サングラスをかけていることが多かったんですけど、サングラスの隙間から目が見えるんですよ。その目が、ものすごく選手たちを見ているんです。歩くのは単純に体を動かす目的もあったでしょうが、選手たちの表情を見ているんだろうなと思っていました。

 あと、自分から選手たちを集めて話すというタイプではなく、ミーティングなども中西太ヘッドコーチに任せていました。中西さんの話はわかりやすくてスッと頭に入ってくるので、仰木さんも信頼していたんだと思います。

――仰木監督の言動で覚えていることはありますか?

星野 僕が先発した日本ハム戦で、野球人生で初めて4回2/3で代えられたことがあったんです。一死一・二塁で、相手のバッターが相性の悪い落合博満さんという場面だったのですが、オリックスが4点リードしていたこともあって、「ここで代えられるのか?」と......。正直、頭にきたので「一度お話をさせてもらっていいですか?」と直接話をしにいったことがあります。

――その時の仰木監督の言い分は?

星野 「打たれて点差を縮められたくなかった」というまっすぐな理由でした。先発でずっと投げていた身としては、あのタイミングでの交代は納得できませんでしたし屈辱的でしたが、引退後、自分が投手コーチになった時に仰木さんの気持ちがわかりました。代えるのが遅れたら、えらいことになる。現役時代は自分のことで必死でしたけど、チーム全体を見る指導者の立場になった時にそれを痛感させられました。

(後編:仰木彬政権下、独走するオリックスで常に抱いていた緊張感。「10.19」の悪夢を経て「仰木マジック」は磨かれていった>>)

【プロフィール】

星野伸之(ほしの・のぶゆき)

1983年、旭川工業高校からドラフト5位で阪急ブレーブスに入団。1987年にリーグ1位の6完封を記録して11勝を挙げる活躍。以降1997年まで11年連続で2桁勝利を挙げ、1995年、96年のリーグ制覇にエースとして大きく貢献。2000年にFA権を行使して阪神タイガースに移籍。通算勝利数は176勝、2000三振を奪っている。2002年に現役を引退し、2006年から09年まで阪神の二軍投手コーチを務め、2010年から17年までオリックスで投手コーチを務めた。2018年からは野球解説者などで活躍している。

◆Youtubeチャンネル「星野伸之のスローカーブチャンネル」>>

【著者プロフィール】
浜田哲男(はまだ・てつお)

千葉県出身。専修大学を卒業後、広告業界でのマーケティングプランナー・ライター業を経て独立。『ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)』の取材をはじめ、複数のスポーツ・エンタメ系メディアで企画・編集・執筆に携わる。『Sportiva(スポルティーバ)』で「野球人生を変えた名将の言動」を連載中。『カレーの世界史』(SBビジュアル新書)など幅広いジャンルでの編集協力も多数。

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