辻発彦は西武に入団してすぐバットを短く持つようになった。石毛宏典が振り返る、黄金世代の「鉄壁セカンド」が育つまで (3ページ目)

  • 浜田哲男●取材・文 text by Hamada Tetsuo
  • photo by Sankei Visual

――辻さんはプロ入りから数年間、打順は9番などが多かったと思いますが、1990年から1番に定着します。1990年といえば、以前に石毛さんから「1980年中盤~1990年代中盤の西武のなかでも、もっとも強かったシーズン」とお聞きしましたが、辻さんの1番定着はチームとしても大きかった?

石毛 辻が1番に定着して、2番に謙ちゃん(平野謙)、3番が秋山幸二、4番に清原和博、5番に(オレステス・)デストラーデ、6番に自分が入って......という形で打順が固定されましたよね。1990年の日本シリーズでは、巨人と対戦して4連勝で日本一になることができましたが、4試合とも辻が第1打席に出塁してチームに勢いをつけてくれました。

 そういうことも含めて、1990年の西武はチームとして完成度、隙のなさがより一層強固なものになった感じはします。辻は1番になってから首位打者も獲ったんじゃないかな(1993年に首位打者を獲得)。

 ちなみに、辻が9番を打っていた時に私が1番を打っていたんですが、1番バッターとしては打点が多かったシーズンがあるんです(1986年にキャリアハイの89打点をマークし、パ・リーグMVPを獲得)。辻がそれに対して、「それは僕ら(下位打線の出塁)のおかげですよ!」なんてことを言ってきたりしてね(笑)。その頃は8番の伊東勤、9番の辻が出塁して、1番の私が返す。そういう場面は確かに多かったです。

(後編:指揮官・辻発彦をどう見ていたか。「いいさじ加減」ができていたが、松井稼頭央新監督に課題も残した>>)

【プロフィール】
石毛宏典(いしげ・ひろみち)

1956年 9月22日生まれ、千葉県出身。駒澤大学、プリンスホテルを経て1980年ドラフト1位で西武に入団。黄金時代のチームリーダーとして活躍する。1994年にFA権を行使してダイエーに移籍。1996年限りで引退し、ダイエーの2軍監督、オリックスの監督を歴任する。2004年には独立リーグの四国アイランドリーグを創設。同リーグコミッショナーを経て、2008年より四国・九州アイランド リーグの「愛媛マンダリンパイレーツ」のシニア・チームアドバイザーを務めた。そのほか、指導者やプロ野球解説者など幅広く活躍している。

◆石毛宏典さん公式YouTubeチャンネル
「石毛宏典TV」はこちら>>

【著者プロフィール】
浜田哲男(はまだ・てつお)

千葉県出身。専修大学を卒業後、広告業界でのマーケティングプランナー・ライター業を経て独立。『ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)』の取材をはじめ、複数のスポーツ・エンタメ系メディアで企画・編集・執筆に携わる。『Sportiva(スポルティーバ)』で「野球人生を変えた名将の言動」を連載中。『カレーの世界史』(SBビジュアル新書)など幅広いジャンルでの編集協力も多数。

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