大工からヤクルト入りを果たした本間忠。田畑一也や城石憲之らにかわいがられ、「壁を感じたことは一度もない」と1年目から活躍した (2ページ目)

  • 菊地高弘●文 text by Kikuchi Takahiro
  • photo by Sankei Visual

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 さらに本間には、大橋が「高津臣吾(元ヤクルトなど)や潮崎哲也(元西武)のシンカーのカーブバージョン」と評価するような、浮き上がってから鋭く落ちるカーブがあった。「カーブとスライダーの質の違う2球種だけでも配球を組み立てられた」と大橋が証言するように、もはやクラブチームの投手というレベルを超えていた。

 そんな本間を見て、大橋は「これを高校時代にやってくれていれば、日本文理の甲子園初出場はもっと早かったはずなのに......」と苦笑していた。日本文理は本間が卒業して2年後の1997年夏に、甲子園初出場を遂げていた。

ヤクルトから指名確約の連絡

 プロテストは前年に巨人しか受験しなかった反省から、「できるだけ多く受験しよう」と決めていた。公募がある巨人、日本ハム、広島、ダイエーに加え、恩師の大井にツテがあったヤクルト、履歴書を送ったうえで「受けていいよ」と返事をもらった阪神。計6球団のテストを受ける計画だった。

 援助してくれたのは、野田サンダーズ監督の野田誠記である。まずは関東の巨人、ヤクルト、日本ハムの3球団のテストに出かける本間のために、野田は5万円の現金をポンと渡した。本間は決死の覚悟でハンドルを握り、新潟から関東へと向かった。

 巨人のプロテストでは、受付で名前を書くと「一次選考免除」を言い渡された。午後からのブルペン投球を終えると、後日の三次選考に進むよう伝えられた。

 その翌日には、埼玉県戸田市でヤクルトの入団テストを受験する。ヤクルトはスカウトが選んだ10人に満たない受験生を選考する、非公開のテストだった。そのなかには、松井秀喜(元ヤンキースほか)を5打席連続敬遠して有名になった河野和洋(元帝京平成大監督)や、のちにオリックス入りする塩屋大輔の姿もあった。

 選りすぐりの猛者たちのなかでも、本間は本来の投球を披露した。手応えを得てヤクルトのテストを終え、今度は日本ハムのテストを受験しようとした朝に、本間のもとへ電話がかかってきた。ヤクルトの編成担当者だった。

「この後、どこに受けにいくんだ?」

「日本ハムを受けます。あとは阪神とかあっち(西日本側)です」

「ウチで合格を出すから、受けにいかないでほしい」

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