ケガと度重なる手術で「酒に逃げた」濱中治は、ファンからの寄せ書きに涙を流し改心。どん底から蘇って15年を闘い抜いた (3ページ目)

  • 長谷川晶一●取材・文 text by Hasegawa Shoichi
  • photo by SankeiVisual

15年間で経験した苦しみや悲しみから得たもの

――「たられば」になってしまいますが、「あのケガさえなければ......」という思いはありませんか?

濱中 2003年は開幕から絶好調だったので、「せめて2003年だけでも万全の状態でシーズンを過ごせていたら......」という思いはありますね。本当に調子がいい時期でのケガだったので、「もしも故障していなければ、タイトルも獲れたんじゃないかな?」と。でも、もしケガをしないで順調だったら、天狗になっていたかもしれない。もしかしたらすでに天狗になっていたところを、「もう一度、頑張れよ」という意味で、ポキンとへし折られたのかもしれないし......。

――故障をしたから気づいたこと、得られたものもあると思いますか?

濱中 ケガをしてから、いろいろな人に支えられました。これは何物にも代えがたい経験だし、財産だと思います。現役引退後、阪神のコーチになったけど、ケガをしている選手の気持ちも理解することができたし、自分の経験を話すこともできました。現役時代にそれほどいい成績を残したわけではないですが、いろいろな経験をしたからこそ話せること、伝えられることが増えたと思います。

――人生には、決して無駄なことはないということですね。

濱中 僕には、プロ野球生活15年間で得た苦しみや悲しみがあります。この経験によって、いろいろ話せることもできました。やっぱり、僕にとってはいい経験をさせてもらった15年間だったと思います。今、地元・和歌山県田辺市を本拠地として、関西独立リーグの和歌山ファイティングバーズのGM(ゼネラルマネジャー)をやらせてもらっているのも、こうした経験があったからだと思います。

――このGM職では、「故郷への恩返しを」という思いが強いそうですね。

濱中 これまでずっと、「社会貢献」という形で故郷の田辺市に恩返しをしたいと思っていました。僕はユニホームを着ないですけど、できる限り選手を指導するつもりです。ちびっ子からお年寄りにまで愛される、地域に密着するチームにしていきたい。それが、現在の夢であり、やりがいですね。

■濱中治(はまなか・おさむ)
1978年生まれ。和歌山県出身。和歌山県立南部高校から、1996年のドラフト3位で阪神に入団。2001年にブレイクを果たして4番も務めた。2003年に右肩を痛め、3度の手術を行なうも復活し、2006年にキャリアハイをマーク。2008年にオリックス・バファローズ、2011年にヤクルトに移籍。2011年オフに引退後は指導者や解説者などで活躍している。

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