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「もしあの出来事がなければ...」。10年ぶり夏の甲子園を決めた早実・斎藤佑樹が感謝する泥だらけの指揮官からのメッセージ (4ページ目)

  • 石田雄太●文 text by Ishida Yuta
  • photo by Sankei Visual

 甲子園を決めた瞬間って、だいたいはマウンドで迎えられるじゃないですか。最後、三振をとって決めたいと思っていたところで延長に入って、後攻ということはサヨナラで勝つしかない。だったら打って決めてやろうと意気込んでいたら、あの危なっかしいレフトライナーのキャッチといい、初球を打ってのサヨナラヒットといい、持っていたのは船橋でしたね(笑)。

「野球はこうやってやるんだ!」

 あの試合で投げた球数は200球を超えていたんですよね(221球)。それだけ三高が手強かったんだと思いますし、僕もできることをすべて尽くした結果だと思います。

 西東京大会では三高も日鶴(日大鶴ヶ丘)も手強い相手で、苦しんで勝ち抜きましたが、本当はもっと余裕を持って勝たなければいけないと思っていました。僕らは春のセンバツでベスト8になるという成功体験を得られて、春の大会で日鶴に負けた時も、ああ、日鶴はこんな雰囲気だろうな、でも夏は勝てるよなって、勝手に余力を残して負けた感を抱いていたんです。

 ところが西東京大会、苦戦した初戦の都昭和から三高との決勝までの間に、僕らの気持ちを引き締める大事な出来事がありました。都立小川との3回戦、試合は11−2で勝ったんですけど、僕にもチームのなかにも相手を舐めてる雰囲気があったんです。「オレら、勝てるでしょ」みたいな......そうしたらその試合後、和泉監督にとても怒られました。

 練習でファーストにノックを打っていた監督が、突然、檜垣のミットを「貸せ!」と奪いとって、監督自身がノックを受ける側に回ったんです。檜垣が「あんなの、無理っす」みたいな感じで言ったから......その時の監督はもう、目が血走っていました。

 ノックの打球に飛び込んで、「野球はこうやってやるんだ!」って叫んだんですよね。あれは「おまえたち、ここまで必死になってやってるのか。そうじゃなかったら勝てないぞ!」というメッセージだったと僕は思いました。

 監督は何球も何球も、全部、ノックの打球に飛び込んで、泥だらけになったんです。監督なのに泥だらけになって......本当は、選手同士で緩んだ空気を締めなければならなかったはずなのに、それを監督にやらせてしまった。だから僕はすごく心を動かされました。あれでみんなの気持ちは引き締まりましたし、それが夏の甲子園につながった。和泉監督って本当にすごいなと、心から思いましたね。

*     *     *     *     *

 センバツに続いて夏の甲子園に乗り込むことになった斎藤は、しかし日大三との決勝で大きな代償を払っていた。じつは甲子園を勝ちとった翌朝、目覚めた斎藤は右手首に激しい痛みを感じていたのである。

(次回へ続く)

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