清原和博に「西武の4番」を奪われた秋山幸二。石毛宏典は「お前はスター選手だ。遠慮するところじゃない」と発破をかけた (3ページ目)

  • 浜田哲男●取材・文 text by Hamada Tetsuo
  • photo by Sankei Visual

――選手時代もソフトバンクの監督時代も常に冷静なイメージがありますが、性格面の印象はどうでしたか?

石毛 あまり話すほうではなく、どちらかといえば物静かでした。ただ、プロ入り後に私は一軍、秋山は二軍にいたので、一緒にいたのは合同自主トレの時くらい。キャンプもオープン戦もチームが違うし、シーズンに入るとより行動が違ってくるので、彼の1、2年目はほとんど見ていませんし、話す機会もほとんどありませんでした。

――秋山さんは練習量が多かったことが知られていますが、元来そうだったのか、それとも広岡達朗さんが1982年から監督になられてからでしょうか?

石毛 広岡さんの監督就任もそうですが、守備・走塁コーチの伊原春樹さんの影響もあって練習量は多くなりました。秋山が身体能力を存分に生かせるように育てて、「将来の主力にしよう」というのが、おそらく当時の西武の育成における大きなテーマだったと思います。

 ただ、先ほども話したように、技術的にはそんなにうまいとは言えなかったから、臨時コーチで張本勲さんなどいろいろな方を呼んで、彼をなんとか一人前にしようという動きがあったことは覚えています。

――アメリカへの野球留学も練習方法に影響を与えていた?

石毛 生活のほとんどが試合か移動時間という、マイナーの過酷な環境を体験したことも大きかったと思います。現役晩年のダイエー時代に、同じチームの選手たちが秋山の練習量に驚いていたというのは、そういった経験が体に染みついていたからでしょう。

――西武時代、石毛さんが秋山さんにアドバイスをするようなことはありましたか?

石毛 秋山が1985年に本塁打を40本打って、「これから、チームの4番は秋山かな」という時に清原和博(1986年入団)が加入し、森監督は清原を1年目から4番で使いました。それで秋山は3番になったわけですが、秋山にとっては気分がいいものではなかったはず。甲子園を沸かせた稀代のスラッガーが鳴り物入りで入ってきたのはわかるけど、40本塁打を打った翌年に、実績のない高卒ルーキーに4番を取られた。そういった憤りはあったんじゃないかと思います。

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