清原和博に「西武の4番」を奪われた秋山幸二。石毛宏典は「お前はスター選手だ。遠慮するところじゃない」と発破をかけた (2ページ目)

  • 浜田哲男●取材・文 text by Hamada Tetsuo
  • photo by Sankei Visual

――「メジャーに一番近い選手」とも呼ばれていましたね。

石毛 日米野球で来日していたアメリカの監督が、全日本のメンバーとしてプレーしていた秋山を見て、「アメリカに連れて帰りたい」と言っていたのは覚えています。ちなみに、私はプロ入り1年目に日米野球の交流戦(全日本vsカンザスシティ・ロイヤルズ)に出場したんですが、当時のロイヤルズの監督に「(アメリカに連れて帰るなら)石毛がいいんじゃないか」と言われたんです。そんな時期もありました(笑)。

――秋山さんは入団当初から守備もうまかった?

石毛 彼は八代高時代(熊本)は投手でしたが、西武に入団してから三塁手に転向したんです。ただ、三塁の守備はそんなにうまくなかったですね。プロ入り2年目の1982年から1984年にかけて、野球留学でアメリカの教育リーグに3回ほど行かされていましたが、帰国後も守備に関しては「うまい」と思ったことはなかったです。

 それから数年後、当時指揮を執っていた森祇晶監督が私のところに来て、「秋山が自分の足を生かすためにセンターを守りたいと言っているんだ」と。さらに森監督から「サードをどうしようか?」と相談されたので、当時ショートを守っていた私は「サードは俺が行きます」と言ったんです。1985年の日本シリーズで膝の靱帯を痛めたこともあって、運動量が少ないサードがいいかなという思いもありました。

 それで「ショートをどうしようか」となったんですが、田辺徳雄を起用する方向で落ち着きました。そういったポジションの変更がひと段落したあとに秋山と話したら、秋山は森監督から「石毛が『膝が痛いからサードに行きたい』って言ってるんだけど、秋山はどうする?」って聞かれていたみたいで......。森監督の真意はわかりませんが、私と秋山の両方に話を持ちかけていたようです。

――そんなやりとりの末にセンターにコンバートされた秋山さんは、水を得た魚のように躍動しました。

石毛 福本豊(阪急)さんをはじめ、足があって守備範囲が広い外野手はそれまでも何人かいましたけど、西武では"秋山のセンター"というのが売りになっていきましたね。その後、強肩で俊足の平野謙さんが中日からトレードで加入したこともあり、外野守備がより一層鉄壁になって、チームの強みになっていきました。

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