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甲子園優勝投手から打者に転向した17人のその後<後編>。早実のアイドルを破った愛甲や金村、現役で開花しそうなのは... (2ページ目)

  • 津金壱郎●文 text by Tsugane Ichiro
  • photo by Jiji Photo

近鉄移籍後に長打力が爆発

 1984年センバツで、前年夏の全国覇者PL学園の新2年生KKコンビを決勝で1−0で下したのが、岩倉高の山口重幸だ。ドラフト6位で阪神入団後、内野手へと転向。1988年は掛布雅之の故障離脱のなか20試合にスタメン出場した。その後は内外野のユーティリティとして重宝されたが、1994年に自由契約となる。

 だが、その人柄を見込まれて、「甲子園優勝投手はプロでは大成しない」との自論で毛嫌いしていた野村克也監督のヤクルトに入団。主に守備固めとして重宝され、2年間で139試合に出場した。1996年引退後は打撃投手を4年間務めたが、プロで投手経験のない打撃投手は珍しいケースだった。

 そして1990年代に入っても、甲子園優勝投手の打者転向は続く。1989年夏の甲子園を制した帝京高のエースで、高校通算51本塁打の吉岡雄二はドラフト3位指名で巨人に入団。1年目の1990年に右肩を手術した影響もあって、1992年に内野手に転向した。

 1997年に出番に恵まれなかった巨人からトレードで近鉄に移ると、1998年からスタメン出場を増やし、2001年と2002年は26本塁打を放つなど6年連続ふたケタ本塁打をマーク。楽天に移籍した2005年にも10本塁打を放ち、持ち前の長打力を発揮した。

 1996年センバツで鹿児島県に初めて優勝旗をもたらした鹿児島実業のエース下窪陽介は、オールドルーキーとしてプロの世界に飛び込んだ。日本大2年時に肩の故障から外野手に転向。日本通運で2006年の都市対抗野球大会で首位打者、同年の社会人ベストナインになって、2006年大学生・社会人ドラフト5巡目で横浜に入団する。

 春季キャンプ前に28歳の誕生日を迎えた1年目は開幕一軍入りを果たし、72試合に出場して打率.277をマーク。しかし、翌年以降は自身の不調やチーム編成の充実などから出番を減らし、2010年に戦力外通告を受けて引退した。

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