闘将・江藤慎一がプロ野球選手になるまで。貧困から名将や名スカウトとの出会い (2ページ目)

  • 木村元彦●文 text by Kimura Yukihiko
  • photo by 産経新聞社

 高校は熊本商業に進んだ。名門熊本工業に阻まれて甲子園には出場を果たせなかったが、江藤の存在は中央大学球界にも知られており、早稲田からの誘いがあった。神宮でのプレーに魅力を感じていた。しかし、家庭の事情がそれを許さなかった。夜半、素振りをして寝床に戻ると、3人の弟が川の字になっていた。その寝顔を見て進学を断念した。3人を高校、大学に進学させることを考えれば、すぐにでも一家を支える必要があった。阪神タイガースが、同期である熊本工業の西園寺昭夫と一緒に入団の声をかけてきたが、まだ高卒で行くには自信がなかった。

 最終目標をプロに置きつつも江藤は当時の九州社会人野球の雄、日鉄二瀬に就職することを望んだ。すでに6人の採用枠は埋まっていたが、半ば押しかけるような形で野球部のテストを受けて入社を懇願すると、臨時工での採用が許された。当時の日鉄二瀬の日給は276円で、1か月働いて野球手当を入れても7000円にもならないが(当時のサラリーマンの平均月給は16608円)、その内の5000円を実家に仕送りし続けた。張本勲が「省三(江藤家の三男、後に巨人、中日ドラゴンズでプレー、慶応大学で監督)は慎ちゃんに頭が上がらんだろうな」と言っていたのは、江藤が当時から弟の学費などの面倒をみていたからである。

 江藤が日鉄二瀬への入社を志望したのは、ただ強いチームというだけではなく、プロに行くための指導を仰ぎたい人物が監督をしていたというのが、最も大きな理由であった。指揮官の名は濃人渉(のうにん・わたる)。後に、中日、ロッテで監督を歴任し、新人エース権藤博を連投させ続けたことで、「権藤、権藤、雨、権藤」の惹句を生んだ人物でもある。

 昭和31年、濃人は合宿所に入ったばかりの江藤に「お前は何を目的に二瀬にきたんじゃ」と問うてきた。「はい、自分はプロに行くために監督にしっかりと仕込んでもらいたくて参りました」。濃人はこれを聞くと「わかった。3年やってプロに行けんかったら、いさぎよう諦めるんじゃ」とだけ答えた。

 この頃の二瀬のメンバーは寺田陽介(南海ホークス)、橋本基(毎日オリオンズ)、黒木基康(大洋ホエールズ)、吉田勝豊(東映フライヤーズ)、古葉竹識(広島カープ)、井洋雄(広島カープ)ら、後にプロに羽ばたいていく選手が研鑽を競い合っており、「濃人学校」と呼ばれていた。

 日鉄二瀬炭鉱は、福岡県飯塚市の北西部に位置しており、真裏には西町という炭鉱夫相手の遊郭があった。まだ売春防止法が施行される前であり、夜ともなれば、絶え間ない嬌声と客引きの声が、周辺にこだましていた。二瀬野球部のグラウンドと合宿所は、よりによってこの西町に近接していた。それでもこのチームから、プロへ進む多くの選手が生まれたのは、かように誘惑の多い環境下でも酒色に溺れる余裕すらなくなるほどに濃人による徹底的な猛練習が課されたためと言われている。「濃人学校」の生徒たちは、指導法、戦術、哲学においてこの監督から極めて大きな影響を受けていた。

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