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「飛び蹴りの前に伏線があった」。元カープ・高橋慶彦と正田耕三が明かした「あの事件」の真相 (4ページ目)

  • 菊地高弘●文 text by Kikuchi Takahiro
  • 布川航太●撮影 photo by Nunokawa Kota

正田 ゲッツーの時なんか、すごい球がくるんですもん。僕なんか優しいボールを高橋さんに投げるのに、高橋さんはガーン! ってめちゃくちゃ速いボールを投げてくる。こっちはまだベースカバーに入ってないのに(笑)。

高橋 それはゆっくり投げたらイップスがあるから引っかかるやん。昔、怖い先輩に脅されてイップスになっとったから(笑)。心の病よ。

正田 あと、セカンドベース付近にフライが上がった時、高橋さんが「オッケー、オッケー!」って言うから見ていたら、急に「セカンドォ!」って言って。もう、あの時はビックリして(笑)。

高橋 あったな。それでショウの打球は俺が横取りしたりな。

正田 僕が捕るつもりでいるセカンドゴロを、サッと捕っていくんですから。いやぁ、でも高橋さんの守備範囲は広かったですからねぇ。肩も強かったし。

―― 「飛び蹴り事件」以降は、お二人は口をきかない関係だったのですか?

高橋 全然、そんなことないよ。

正田 そうですね。

高橋 俺がペイ(北別府)や達川さんと仲悪いという延長線で、正田の飛び蹴り事件があっただけやから。ペイとだって、この前にトークショーをやったくらいだから。

正田 へぇ~、そうなんですか。

―― 高橋さんと正田さんが二遊間のレギュラーとしてコンビを組んだのは、1986年からの4年間でした。お互いにやりやすかったですか?

正田 やりやすかったですね。僕らの守備範囲は広かったと思いますよ。

高橋 その前は怖い先輩ばかりだったもん(笑)。にしても、昔は怖い人が多かったな。最初に広島に来た時に「カバチ言いよんな」なんて脅かされて。

正田 カバチは広島弁で「屁理屈」って意味で。ようは「言い訳するな」ってことなんですよね。最初は広島弁に馴染めなかったですよ。

高橋 野次が強烈で、遠征に行ったら広島に帰りたくなかったもんな。

正田 東京はやりやすかった(笑)。広島なんて物は飛んでくるし、「おんどりゃぁ!」の世界やから。

高橋 よう客とケンカしたな。「ヨシヒコ、なに1球目打っとんじゃ!」「やかましいわ、コラ!」って(笑)。

正田 僕「家、燃やす」って言われましたよ。

高橋 でも、本当に面白かったよなぁ。選手も客も、ひどい人もいっぱいいたけど。

正田 面白かったですねぇ。

(後編につづく)


【Profile】
高橋慶彦(たかはし・よしひこ)
1957年、北海道生まれ。1974年ドラフト3位で広島東洋カープに入団し、1978年からレギュラーとして定着。赤ヘル黄金時代の「1番ショート」として活躍し、1989年までカープでプレー。1990年にロッテ、1991年に阪神に移籍し、1992年に現役を引退。ダイエー、ロッテでコーチを務め、多くの選手を育て上げた。現在は指導者、解説者として活躍しながら、YouTubeでの活動も展開中。

正田耕三(しょうだ・こうぞう)
1962年、和歌山県生まれ。1984年ドラフト2位で広島東洋カープに入団。1987年、スイッチヒッターとして初の首位打者(2年連続)に輝くなど、攻守にわたり活躍した。引退後は広島、近鉄、オリックス、阪神で多くの選手を指導。韓国リーグでもコーチを務めた。

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