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アテネ五輪、野球日本代表の混乱。高木豊が語る長嶋監督不在の重圧と影響 (4ページ目)

  • 浜田哲男●取材・文 text by Hamada Tetsuo

――想像を絶するプレッシャーがあったのですね。そんな状況で、メンバーの結束が強まったきっかけなどはありましたか?

高木 アジア予選が始まる2003年10月に、小笠原(道大)と松井(稼頭央)の誕生日が10月だったので、長嶋監督の発案で誕生日会をやりました。そういったことから"チーム"になっていきましたね。

 ただ、小笠原はアジア予選の時にすごく調子が悪くて......。最初、長嶋監督は3番を任せていたのが、決勝リーグ2試合目に8番に降格させることになった。それを伝えると小笠原は、「僕は勝ちにきた。3番を打ちにきたわけじゃない」と言ってくれたんです。しかも、その試合で先制点をたたき出してくれた。その時にチームメイトが小笠原に送った拍手や、ガッツポーズなどを見て、「あ、これでひとつになったな」という感じがありました。小笠原が苦しんでいるのをみんなが知っていたので、ベンチは本当に盛り上がりましたよ。

――そうして五輪本戦に向かうわけですが、アテネ五輪本戦ではプロ野球の各チームから招集できるのは「2選手まで」という制約がありました。選手選考で、どんな苦労がありましたか?

高木 非常に難しい選択を迫られましたし、メンバーを決める時に長嶋監督もいませんでしたから、すごく大変でした。チームによっては「投手を2人出してもいい」というケースもありましたが、それはチーム事情によって変わってくる。そういう押し問答がありながら選んだ24人でしたね。

 他にも呼びたかった選手はいっぱいいました。二岡(智宏)や井端(弘和)がその筆頭です。それは、五輪直前のイタリア合宿の時に、木村(拓也)が肉離れしたんですよね。ユーティリティープレーヤーとして考えていた選手がそうなって、短期決戦なのでひとり欠けると負担が大きくなるじゃないですか。だから代わりの選手を打診したんですが、それが叶わず。木村も泣きながら「(このままチームに)置いてくれ」と強い意志を伝えてきましたし......。

 そんな紆余曲折はありましたけど、あらためて振り返ると、やっぱりいいチームだったなと思いますね。

(中編:キャプテン宮本慎也の苦悩>>)

元プロ野球選手のYouTuberのパイオニア

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