アテネ五輪、野球日本代表の混乱。高木豊が語る長嶋監督不在の重圧と影響
アテネ五輪・守備走塁コーチ
高木豊が振り返る激闘 前編
1980年のドラフト3位で大洋(現・横浜DeNA)に入団した高木豊。通算8度の打率3割をマークしたほか、加藤博一、屋敷要と共に"スーパーカートリオ"と称されるなど、走攻守揃った選手として長く活躍した。
現在は解説者やYouTuberなど幅広い分野で活動。元プロ野球選手のYouTuberのパイオニアでもあり、YouTubeチャンネル「高木豊チャンネル」の登録者数は24.8万人を誇る(5月14日時点)。
指導者としての経験も豊富で、2004年のアテネ五輪では日本代表の守備走塁コーチを担った。今夏は東京五輪の開催が予定され、日本代表は金メダル獲得を期待されている。高木に日の丸を背負う戦いのプレッシャーや当時の裏話を聞いた。
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長嶋茂雄監督のアテネ五輪断念を伝え、頭を下げる長嶋一茂(手前)と中畑清ヘッドコーチ(奥)photo by Sankei Visual――シドニー五輪ではプロ・アマ混合メンバーで臨み、初めて野球日本代表が五輪でメダルを逃します。4年後のアテネ五輪では長嶋茂雄監督のもと、初めてオールプロのドリームチームで臨みました。金メダル獲得が至上命題と目される中、そのプレッシャーはどれほどのものでしたか?
高木豊(以下:高木) まず、オールプロで臨むというひとつのプレッシャーがあり、さらに金メダル獲得というプレッシャーがありました。長嶋監督は、「(アジア予選の時から)アテネまで全勝でいく。1試合も力を抜くな」と言っていましたし、余計に身が引き締りましたね。
最初は日の丸のプレッシャーも漠然としていましたが、日本代表のユニフォームに袖を通した時、「これは絶対に負けちゃいけない」と思ったことを覚えています。プロ野球のリーグ戦では"個のプライド"も大事にして戦いますが、日本代表の戦いは"チームのプライド"であり、"日本のプライド"ですよね。
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