大打者・若松勉は広岡達朗に認められず。「しばらくの間、一緒にいたくない」

  • 長谷川晶一●取材・文 text by Hasegawa Shoichi
  • photo by Sankei Visual

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【「ミスタースワローズ」若松勉の第一印象は?】

――ここまで、八重樫さんのヤクルト時代の仲間たちについて伺ってきましたが、まだ大事な人が登場していません。そうです、元祖「ミスタースワローズ」の若松勉さんです。若松さんは1947(昭和22)年生まれで、プロ入りは1971年。八重樫さんよりも年齢は4つ上になりますが、プロ入りは八重樫さんが1年上になります。

八重樫 最初に若松さんを見た時には、「あれ、高校生かな?」と思うぐらい小さくてビックリしたんですよ。でも、キャンプに入ったら、その印象は一変しましたね。

1978年にヤクルトが日本一になった優勝パレードで、声援に応える若松勉(左)と広岡達朗監督(右)1978年にヤクルトが日本一になった優勝パレードで、声援に応える若松勉(左)と広岡達朗監督(右)――どのように変化したんですか?

八重樫 バッティングがすごくて、本当に驚きました。ひとりだけ打球が違ったんです。宿舎で半ズボン姿を見た時のことはハッキリと覚えていますよ。太ももがパンパンに張っていて、「あぁ、背丈は関係ないんだな。これだけ強靭な下半身があれば、バッティングはできるんだな」って感じました。

――168cmと身長は低かったけど、すでに体は出来上がっていたんですね。

八重樫 あれだけの下半身を作り上げるのは、相当大変だったと思いますよ。一応、プロでは僕のほうが先輩だったけど、すぐに「北日本出身者として、プロで成功してほしいな」と思いました。僕は仙台出身で東北の人間でしょ。若松さんは北海道だから、「郷土の先輩」というのか、何か親近感が最初からあったんですよ。

――若松さんは1年目こそ、新人王を逃したけどレギュラーに定着。2年目には背番号1を背負って首位打者になります。これは、八重樫さんにとってはある意味当然の結果でしたか?

八重樫 当然の結果でしたね。あの頃の若松さんはタフでしたよ。昼は二軍、夜は一軍の試合にずっと出続けていましたから。しかも、両方とも先発出場。この頃、僕と若松さんはファームの試合に出場して、夜も神宮に一緒に行くんだけど、僕は一軍では先発出場じゃないから休めるんです。でも、若松さんはまったく休むことなく試合で活躍する。本当にタフでしたね。

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