「人的補償最高! ありがとう!」巨人より中日で長く続けた小田幸平の自負 (4ページ目)

  • 森大樹●取材・文 text by Mori Daiki
  • photo by Kyodo News

「僕はもともと失敗を引きずるタイプで、例えば1点リードの9回から守備交代で入ってサヨナラ負けを喰らったりした日は、1カ月ぐらい悩んでしまうくらいでした。中日だったら、岩瀬(仁紀)さんがそのシチュエーションで打たれたら僕に責任がありますからね。夜も眠れないくらい落ち込みます。

 でも、ある日出会ったお坊さんに『結果は最初から神様によって決められていた、と考えたら楽になりますよ』と言われたことをきっかけに、すべてポジティブに考えられるようになったんです。もちろん失敗について反省しなくていいわけではないですが、気持ちを切り替えるための発想として、この考え方は僕に合っていました」

 だから、小田に「たられば」は存在しない。どこかでひとつでも歯車が食い違っていたら、今の小田幸平はなかった。

「僕は生まれ変わっても同じ道を歩みたい。レギュラーにもなりたくないです」

 人生は選択の連続である、という言葉が存在するが、まさに選ばれた"道"やタイミングが異なればまったく違う結果にたどり着いていたかもしれない。小田にとって遭遇した出来事、出会った人との縁などすべてが、今の自分を作り上げるために欠かせなかったこと。人的補償による中日移籍もそのひとつで、小田が長く選手を続けるターニングポイントになった。

「今でも『人的補償? あぁ俺のことね』と思っています(笑)。赤松(真人:2008年に阪神→広島。移籍後実働10年)の前は、僕が人的補償で移籍してから一番長く現役を続けた選手だったんです。だから人的補償という言葉に対してポリシーがある。

 僕は巨人で8年、中日で9年やりました。中日に移籍する時は、誰も巨人より1年も長くやれるなんて思っていなかったはずです。僕みたいな、レギュラーを1回も獲れなかった選手ならなおさら。でも、人的補償であっても必要とされて移籍したわけで、実際にそれを証明できた、と言い切れるくらいは長くやれた自負があります。いい制度だし、いい呼び方だと思いますよ。誰がつけたのか知りたいくらい(笑)。

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