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「人的補償最高! ありがとう!」巨人より中日で長く続けた小田幸平の自負 (3ページ目)

  • 森大樹●取材・文 text by Mori Daiki
  • photo by Kyodo News

 当時の中日には絶対的正捕手・谷繁元信がマスクを被っていたため、移籍しても出場機会を得られるかはわからない。それでも小田は自分の役割に徹し、来たる出場機会に備えて万全を期してきた。その根底には、小田なりの「移籍」や「選手」に対する持論がある。

「基本的にトレードや人的補償というのは、社会人でいうところの"部署移動"だと思うんです。選手は"プロ野球"という会社に所属していて、"球団"という部署に属しているという感覚ですね。

 アメリカではトレード移籍となると、その選手は必要とされていると感じて喜んで移籍すると聞きます。一方で、日本ではマイナスに受け取りがちというか、寂しいと捉える選手が多い。でも選手なら、そんなことを言ってる場合じゃないと思うんですよ。僕だってもともと阪神ファンですが、最初の"配属先"はライバルチームの巨人だった。でも、自分を求めてくれる場所から声がかかるなんて、こんな嬉しいことはないですし、やるしかじゃないですか」

 肩書き云々ではなく、小田は自分を必要としてくれる場所で求められる役割を全うすることを大切にしてきた。中日に移籍した際に掲げた「チームを明るくする」という役割を果たし、小田は2015年1月、17年間のプロ生活に別れを告げた。

「明るくベンチを盛り上げられる選手がチームには必要だと思いますよ。自分も指導者になってからは、そういう選手がいないか探します。『声で2点取れる』なんてことも言われますけど、それは本当にあると思っていて。大きくリードされてもベンチにそういう選手がひとりいて、アホなことをやってくれると盛り上がる。昔から僕もそういう存在になりたかったんです。それは全うできたかな」

 しかし小田は、「悩みを抱えると長く考え込んでしまう性格」と自身を分析している。明るく誰からも愛されている姿からは想像がつかない。そんなネガティブな面も克服する考え方の転換が、小田の人生をプラス方向へと動かしていったのだ。

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