人的補償を告げられた瞬間。馬原孝浩は一瞬戸惑い、寺原隼人は絶句した (2ページ目)

  • 森大樹●取材・文 text by Mori Daiki
  • photo by Kyodo News

 2005年シーズン当初、ソフトバンクのクローザーは三瀬幸司が務めていた。しかし三瀬が不調に陥るとリリーフ転向を決断した馬原が抑えに抜擢され、以降ソフトバンクの守護神として君臨。2007年には最多セーブのタイトルを獲得している。

 ケガとつき合いながら2011年までソフトバンクのクローザーを務めてきた馬原だったが、2012年に右肩を手術し、この年ついにシーズン中の復帰は叶わなかった。
そしてオフにFAでソフトバンク復帰を表明した寺原隼人の人的補償としてのオリックス移籍が告げられる。

「本当に急遽だったんですよ。寺原本人とホークスのチームメイトたちとバーベキューをしているところに電話がかかってきました。一瞬戸惑いましたけど......ネガティブに考えるほうではないので新しい環境でできるという前向きな気持ちでした。そもそも僕自身は、プロテクトから外れることは予想していたんです。手術をして1年かけてリハビリしていくという段階にあったので」

 その年オリックスの監督に正式就任した森脇浩司氏は、馬原がホークスに入団した当時に二軍監督を務めていた。プロ入り後に何かと気にかけてくれた、馬原にとって恩人のひとりである。森脇監督にとっても信頼を置く馬原の獲得は肝煎だったに違いない。

「森脇さんとも電話口で話しましたけど、僕の獲得を推してくれたんだろうなというのは伝わってきました。だから補償として選ばれたプレッシャーはありましたね。でも、もし森脇さんのところでなかったとしてもポジティブに考えていたと思います。もともと僕は、リリーフに転向してから『チームに貢献できなくなったらいつ辞めてもいい』と思っていました。だから仮にホークスに残れたとしても、それができないと感じたら辞めるという決断をしていたかもしれません」

 一方、自身のFAによって馬原を移籍させることになってしまった寺原は強いショックを受けていたという。

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