中日移籍後0勝で開幕投手に。川崎憲次郎「かすかな希望を抱いていた」 (4ページ目)

  • 中島大輔●文 text by Nakajima Daisuke
  • photo by Sankei Visual

 自身を奮い立たせて自主トレから春季キャンプ、オープン戦をすごし、4月2日に迎えた開幕戦。移籍4年目でようやくかなったナゴヤドームのマウンドに、川崎は痛み止めを服用して上がった。

 初回は広島打線を三者凡退に抑える上々の立ち上がりだった。しかし、続く2回に5本のヒットを許して5失点。イニング途中で降板した。

 4月30日の横浜戦で再び先発のチャンスを与えられたが、今度は1アウトもとれずに初回5失点でKO。以降、再びファームでの日々が続いた。

「簡単にはいきませんでした。でも、落合さんのような人がいてくれて、本当に運がいいと思います。落合さんじゃなかったら、ああいう起用法は絶対ないし。最後(10月3日)に、落合さんがマウンドに送ってくれました。それまで本当に苦しかったけど、あの1日で苦しさが吹っ飛んだような気がします。勝てなかったけど、最後まで野球をまっとうできた。一生懸命やってきてよかったなって、つくづく思いましたね。あの1日だけは」

 2000年オフにFA権を行使して3本の道で悩んだ時、川崎にはひとつだけわかっていたことがある。どの道を進もうが、絶対"何か"あるということだ。まさか4年も苦しむとは思わかなかったが、故障は避けられない運命だったのかもしれない。

 だが、最後に花道をつくってもらえたのは、自身の選択があったからこそだ。FA宣言から20年が経った今も、川崎はそう考えている。

「故障は中日で起こったというだけの話で、決断にまったく悔いはないです。いいように考えれば、俺は野球人生で頂点もどん底も見てきた。両方経験しているピッチャーは、そうそういないですからね」

 プロ野球選手として頂点からどん底まで経験し、わかったことがある。自分の身をもって知ったことを、川崎は子どもたちに伝えている。

「よく言うのが、『失敗は何百回してもいいよ。その代わり、失敗した数だけ成功する方法を見つけなさい』ということです。成功する方法を新たに見つけることができれば、今後、それが一番成功する方法になっていく。痛くならない方法はわからないですけどね。プロになった以上、骨や筋の1本や2本切る覚悟でやらないと、絶対やっていけない世界なので。そこまで体をつくっていかないと、絶対通用しないんですよ」

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