口撃VS沈黙。ヤクルト対ライオンズの日本シリーズにあったもうひとつの闘い (3ページ目)
【ニアミスに終わった石毛と野村の野球人生】
1992年、1993年の日本シリーズは、西武・森祇晶、ヤクルト・野村克也による「知将対決」が話題となり、マスコミ報道では「キツネとタヌキの化かし合い」とも称された。しかし、野村はマスコミを前に多弁だったのに対して、森はあえて沈黙を貫いた。1992年シリーズ前日、野村はマスコミを前に堂々と宣言する。
「我々は4勝0敗で西武を倒す。うちは勢いがつけばそのままいく可能性があるけど、ひとつ負ければズルズルいく可能性も高いから」
しかし『詰むや、詰まざるや 森・西武vs野村・ヤクルトの2年間』(インプレス)の取材の中で、野村は「勝てると思っていなかったから、そんなことを言ったんだよ」と、笑って言葉の真意を明かしている。そんな思いを抱いていたからこそ、野村は西武に対して執拗な「口撃」を繰り返した。それにあおられるように、マスコミも野村の言葉を大々的に報じた。一方の西武・森は言う。
「それが野村さんのやり方だということは、もちろんわかっていました。こちらにも言い分はあるし、言いたいこともある。でも、それに乗ってしまったら負けなんだよね。だから、こちらは"黙して語らず"を貫いた。それもまた立派な戦術でしょう」
指揮官の思いを受けて、西武ナインも沈黙を貫いた。だからこそ、忸怩(じくじ)たる思いが募っていたのが石毛であり、秋山だった。あらためて、石毛に「ID野球をどう思うか?」と尋ねてみる。石毛の答えに迷いはない。
「僕はID、データだけでボールが打てるようになるとは思いません。10歳から野球を始めて、30年間毎日バットを振って、ノックを受けて、僕たちは"技術屋"になった。野村さんの言うこともわかります。データも傾向もあるわけだから、それを上手に利用して確率の高いボールを狙えばいいのかもしれない。それもひとつの方法でしょうけれど。それでも僕は......」
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