口撃VS沈黙。ヤクルト対ライオンズの日本シリーズにあったもうひとつの闘い (2ページ目)

  • 長谷川晶一●取材・文 text by Hasegawa Shoichi

【秋山幸二は「そういう野球は野村さんよりも前からやっていた」と言った】

 石毛同様に、「ID野球は特に意識しなかった」と語ったのが、"AKD砲(秋山幸二・清原和博・デストラーデ)"の一角を占めた秋山幸二だった。秋山へのインタビュー中に"ID野球"の話題になり、石毛の発言を伝えると、秋山は大きくうなずいた。

「ホント、ホント、石毛さんの言うとおりですよ。だって、僕らだってデータについては、よう勉強させられたもん(笑)。しかも、それは森さんじゃない。広岡さんの時代からですよ」

 西武のクリーンナップを担っていた秋山 photo by Hasegawa Shoichi 西武のクリーンナップを担っていた秋山 photo by Hasegawa Shoichi 当時、西武を率いていた森祇晶の前には、広岡達朗が監督として黄金時代の礎を築いていた。秋山が、広岡監督時代をこう振り返る。

「僕がまだ若手だった頃、広岡さんから野球について徹底的に教わりました。当時の西武には『必勝法、必敗法』という冊子があって、それをもとにしてディスカッションを繰り返し、ミーティングもすごく長かったんです」

 キャンプ中の長いミーティングといえば野村の"専売特許"である印象を受けるものの、秋山によれば、「そんなことはずっと前からやっていた」のである。だからこそ、続く森監督時代に西武は黄金時代を迎えることができたのだ。自負を込めて秋山は言う。

「当時の西武が、特に『データを重視する』と謳わなかったのは、そんなこと言わなくてもできたからですよ。野村さんよりもっと早くから、そういう野球を西武はやっていたからです」

 秋山の言葉もまた力強かった。

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