今の投手も350勝できるはずや、
同じ人間やからと米田哲也は言った (2ページ目)
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「いやいや、そこまでは無理。もっと勝てたとは思うけど、400は無理。僕ね、昔から病気したらやめる、いう気持ちありましたから。近鉄行ってね、痛風になって足が腫れた。痛くて動けない。10日ぐらい寝てました。その時、349勝してたんですけど、西本(幸雄)さんが監督で、杉浦(忠)さんがピッチングコーチで、『ヨネェ! 最後のゲームや、出てこい』言われて」
77年10月7日、西宮球場での対阪急戦。6対1と味方が5点リードして迎えた4回裏、米田さんが三番手でマウンドに上がった。1点を取られたものの、2イニングを投げ、ここで勝利投手の権利を手にした。その後、3人の投手が1回1/3ずつ投げるリレーでリードを守り抜き、米田さんが350勝を達成したのだった。
「その時は僕、『絶対に勝利投手なるか?』『勝利投手なるか?』ってマネージャーに何度も聞いて。『なります』言われて。だから難産ですよ、350勝目は。で、これはもうやめようと」
引退発表はそれから11日後のこと。年齢は39歳。肩やヒジに故障があったわけではないという。どうしても、病気さえなかったら400勝超えも......、と思ってしまう。その数字をどのようにとらえていたのだろう。
「いやいや、別になんとも思ってません。ただね、後でカネさん、言うてました。『ヨネに抜かれんじゃないかなあ、と思ってた』って。それで僕もね、カネさんにはっきり言うとったの。『抜いたろう! 思って行ってた』言うて。『だけど、やっぱり無理やった』って」
[球界の天皇]と呼ばれた大投手がそこまで気にしていたとは......。現実的には無理でも、じつは米田さんにとって、400勝を超えることが目標だったのだ。小山との競い合いとはまた意味合いが違うものの、これも想像を絶する次元の話で、やはり頭がぐらぐらする。その頭のなかで、今までは一塊の岩盤だった400という数字が、400個の石の集まりになった。
「だけど、不思議でねぇ、300勝の上、カネさんでしょ? 僕でしょ? 小山さんでしょ? 鈴木啓示でしょ(元・近鉄)でしょ? みんな弱い球団の出身やねん。あとはね、別所さんとスタルヒンですよ」
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