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大矢明彦が佐々木&谷繁バッテリー
誕生秘話を告白「シゲを使っていいか」 (2ページ目)

  • 木村元彦●取材・文 text by Kimura Yukihiko
  • photo by Kyodo News

 大矢明彦と言えば、長きにわたってヤクルトのコーナーストーンを守った人物。1978年の日本一の優勝メンバーでもあり、スワローズの扇の要の背番号と言えば、大矢の27であり、それがやがて古田敦也に引き継がれていく。

 そのヤクルトの象徴でもあった大矢が同じ関東のチームとは言え、横浜ベイスターズの監督に就任していった経緯とはどのようなものであったのか。

「僕はヤクルトで現役引退する際に、松園(尚巳)オーナーからファームの監督をやれと言われたんです。僕らの頃は、選手を辞めたらヤクルトの他の仕事、会社に勤めるというのが通例で、非常にファミリー色の強い会社でした。

 でも僕は、『他のチームも見てみたいので、一回ユニフォームを脱ぎます』ということでお断りしました。それで、解説者になるわけですが、当初、日本テレビ、文化放送、日刊スポーツの3社で仕事をすることが決まっていたんです。

 ところがそこで松園オーナーに呼ばれて、『大矢、この先どうなってるんだ?』と聞かれて。現状を報告したら、『ちょっと待ってろ』と言われて、松園さんがすぐフジテレビに電話されたんです。一応ヤクルトってフジサンケイグループなので、あっという間に逆転してフジテレビ系列に決定してしまうんです」
 
 急転直下、鶴の一声ですべてがひっくり返り、解説者としてフジテレビ、ニッポン放送、産経新聞でのスタートとなった。

「だから、いろんな人に叱られたんですが、オーナーには二軍監督も断っていましたし、あんまり居直りすぎてもよくないなと思って、『お世話になります』と伝えました。これは僕の個人的な考えなんですが、フジテレビは僕を採用しようとは思ってなかったのに、採らざるを得なかったんじゃないかという思いがずっとあったんです。

 それで、解説をやらせていただいていたんですが、1993年に横浜大洋ホエールズが、大洋という会社名を球団名から外すことになりました。そこで、横浜ベイスターズになるにあたり、新チームに肩入れしていたフジテレビから3年行ってくれと言われたんです。

 正直言って、僕はヤクルトでもう一回ユニフォームを着て、できれば監督をやりたいと思っていましたので、やっぱり悩みました。でもフジテレビと契約した時に、個人的には申し訳ないという気持ちがありました。最初から採ろうと思っていなかっただろう僕を世話してくれていましたので、これは恩返しをしなきゃいけないという気持ちがあったんです。最後はベイスターズ行きを自分で決めました」

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