「母国に帰れなくなった助っ人」は、なぜプロ野球で成功できたのか?

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki

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「令和に語る、昭和プロ野球の仕事人」 第6回 バルボン・前編 (第1回から読む>>)

 平成の頃から、どこかセピア色に映っていた「昭和」。まして元号が令和になったいま、昭和は遠い過去になろうとしている。だが、その時代のプロ野球には、今もファンの記憶に焼きつく強烈なキャラが多くいた。

 過去の貴重なインタビュー素材を発掘し、個性あふれる「昭和プロ野球人」の真髄に迫るシリーズ。6人目は、往年の阪急ブレーブスで3度の盗塁王に輝くなど活躍し、"愛される助っ人"の元祖となったバルボンさんの言葉を伝えたい。

1960年4月22日、近鉄戦でホームスチールを決めるバルボン(写真=共同通信)1960年4月22日、近鉄戦でホームスチールを決めるバルボン(写真=共同通信)
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 ロベルト・バルボンさんに会いに行ったのは2006年6月。当時はオリックス球団のファンサービスグループに所属していたが、僕はそれまで、バルボンさんの球歴を何も知らずにいた。オリックスの前身、阪急でかつてプレーした助っ人、という認識だけだった。

 そのかわり「バルボン」の名は以前から頭に刷り込まれていた。テレビで何度か見た、阪急の外国人選手のヒーローインタビュー。コメントをファンキーな関西弁に訳して伝えるシーンが印象的だったのだ。が、現役時代の実績はわからず、阪急で10年、近鉄で1年プレーし、通算1353試合出場が歴代の助っ人最多(当時)とは驚く。その上、1955年からずっと日本に滞在し続けているのだが、背景にはそうせざるを得ない事情もあった。

 キューバ出身のバルボンさんは当初、メジャーリーグを目指して渡米。54年にドジャース傘下のマイナーでプレーした後、当時の阪急球団代表、村上実の誘いを受けた。村上と懇意だったインディアンスのスカウトが、バルボンさんをよく知っていたことがきっかけだったという。

 まだ21歳、マイナーでもA級の下位だったが、阪急に入団すると俊足を生かしていきなり1番打者として活躍。1年目の55年はリーグ最多安打、最多得点、最多三塁打、49盗塁をマークする。ベストナインに選ばれた58年からは3年連続盗塁王に輝いている。

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