元巨人・山口鉄也が語るプロ人生「工藤公康さんとの出会いで変わった」 (4ページ目)

  • スポルティーバ●文 text by Sportiva
  • photo by Kyodo News

―― 2007年の4月29日にプロ初登板を果たしました。その時のことは覚えていますか。

「神宮球場でのヤクルト戦で、最初のバッターはラミちゃん(現DeNA、アレックス・ラミレス監督)でした。神宮はブルペンがファウルグラウンドにあるので、ある程度、雰囲気はつかめていたのですが、名前がアナウンスされた時は、もう頭の中が真っ白で......マウンドで震えていました。なんとかショートゴロに打ち取ることができて、ようやく落ち着けました。あのラミちゃんを抑えたことで自信になりましたけど、打たれていたらどうなっていたのか......」

―― 活躍するたびに"育成の星"という言葉が紙面に躍りました。育成出身選手として使命感のようなものはあったのですか。

「最初は何をするにも"育成"という言葉がついてまわって、面倒だなと思う時期もありましたが、ある育成の選手から『山口さんのようになりたい』と言ってもらった時に、自分が活躍することでほかの選手の励みになるんだと気づかれたんです。もちろん、誰かのためにやっていたというわけではないのですが、少しでも長く頑張ろうと思って投げていました」

―― 2008年からはプロ野球記録となる9年連続60試合登板の金字塔を打ち立てました。

「自分でも本当によく投げたと思います。昔から体も強い方ではなかったですし、高校の時はヒジを痛め、入団した1年目も肩を痛めましたから。先程も言いましたが、1年目のオフに工藤さんの自主トレに参加させてもらってからすべてが変わりました。もし工藤さんとの出会いがなかったら体も強くなっていなかったでしょうし、こんなに長く野球をやれていなかったと思います」

―― とくにリリーフは、体力的にも精神的にもきついポジションだと思います。

「個人的には、気持ちの部分できつかったですね。ブルペンではいつも『打たれたらどうしよう。投げたくない』と思っていました。点が入ったり、ヒット1本でも流れが変わってしまうポジションですので、失敗が許されない。とにかく、相手に流れを渡さないことだけを考えてマウンドに上がっていました」

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