「ポスト古田」として契約金7500万円
もらった高卒捕手が見たもの (4ページ目)
──実際、米野さんは2006年に116試合に出場して7本塁打を打ち、チームは前年の4位から3位になりました。
米野 シーズンの最初はそれなりにプレーできていたんですが、後半に落ちていきました。でも、やはり2006年は自分の中ですごく充実していました。プロは試合に出てナンボですからね。
──そのシーズンオフには年俸が3200万円に上がりました。
米野 はい。せっかくチャンスをいただいたんですが、翌年の出場は32試合に終わりました。チャンスをもらったのにモノにすることができなかった。すべては僕の実力不足のせいです。
──古田さんのあとのキャッチャーという立場で、まわりが求めるレベルが高かったんじゃないですか? スワローズの正捕手ならこのくらいできて当たり前という基準が。
米野 確かに、それはあったかもしれません。でも、プロ野球選手にとってあんなチャンスが巡ってくることは少ないですから、やっぱり自分はダメだったなあと思います。1回のチャンスをしっかりつかまないと、2回目はなかなか来ません。
古田さんのあとだから苦しかったということではなくて、結果を出せなかったのは自分のせいだと思っています。キャッチャーにとって大切なことは、チームを勝たせること。ほかのポジションに比べればやることは多いし重労働だと思いますが、その分、勝利に対する喜びを感じることができるのがキャッチャーだと思います。すごく大変だけど、勝てば報われるポジションです。
米野智人(よねの ともひと)
1982年、北海道生まれ。北照高校から1999年ドラフト3位でヤクルトスワローズに入団。強肩の捕手として「ポスト古田」と期待を集めた。2001年に一軍初昇格、2002年に初安打、初めてのサヨナラ安打を記録した。古田敦也が選手兼監督になった2006年に自己最多の116試合に出場し、7本塁打を放っている。2010年シーズン途中に埼玉西武ライオンズに移籍。2012年から外野手に転向した。2016年に北海道日本ハムファイターズで選手兼コーチ補佐としてプレーしたのち、引退。現在は東京・下北沢でカフェレストラン「inning+(イニングプラス)」を経営している。
トークイベント「プロ野球で1億円稼いだ男のお金の話」
第5弾(4月16日)のゲストは岡本篤志さん。詳しくはこちら>>
4 / 4