柳裕也をドラフト1位まで大きくした、
明大4年間の「人間力野球」 (3ページ目)
「中学時代に、甲子園のテレビ中継を見ていて、筒香嘉智(DeNA)さんが4番に座っていた横浜のユニフォームだけが輝いて見えたんです。だから自分も横浜高校で甲子園を目指したいと思いました。いい縁をいただきました」
しかし、シニア日本代表の肩書きを引っ提げて入学しても、当初は同級生のレベルの高さにショックを受けた。
「ブルペンの隣で投げている同級生を見ていたら、真っ直ぐも変化球もとても同級生とは思えなかったんです。周りは関東の高いレベルのなかで揉まれてきた選手。自分は、田舎出身で、お山の大将で野球をやってきたんだなと。とんでもないところに来たなと思いました」
横浜高校の投手陣は、小倉コーチによる厳しいトレーニングが課せられる。松坂大輔(ソフトバンク)にしても涌井秀章(ロッテ)にしても、小倉コーチのアメリカンノックで足腰を鍛えられ、タフな肉体を築き上げた。「どこに出しても恥ずかしくない技術を高校時代のうちに身につけさせる」が信条である小倉コーチは、フィールディングやけん制なども、細かく指導する。
「すべてがきつかったですね。これからの人生においても、あの毎日よりきついものはないと思います。小倉コーチには可愛がっていただきました(笑)。渡辺監督と小倉コーチ、そして明治の善波(達也)監督という3人が僕の恩師です」
競争を勝ち抜き、2年夏には伝統の「1」を背負う。当時の球速は130キロ台中盤で、力を抜いたフォームからコントロールよく打ち取るピッチングが持ち味だった。
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