2013.05.07

中村紀洋、谷繁元信……それぞれの2000安打物語

  • 石塚隆●文 text by Ishizuka Takashi

プロ野球史上43人目の2000本安打を達成した中村紀洋「かなり遠回りしましたが、いろいろな経験をさせてもらってきました。僕に携(たずさ)わっていただいた方々に、本当に感謝したいと思います」

 中村紀洋(横浜DeNA)が5月5日の中日戦の第5打席目で二塁打を放ち、プロ野球43人目の通算2000本安打を達成した。試合後、開口一番、中村が語ったのがこれだった。この言葉通り、中村の野球人生はまさに波乱万丈だった。

 1991年、大阪・渋谷高校からドラフト4位で近鉄バファローズ(現オリックス・バファローズ)に入団すると、94年に台頭しレギュラーに定着。豪快なフルスイングを武器にホームランを量産。98年にリーグ2位の32本塁打を放つと、02年まで5年連続30本塁打以上をマーク。00年には本塁打王と打点王の二冠を獲得し、翌01年も打点王に輝くなど、球界を代表するスラッガーへと成長を遂げた。

 そんな絶頂期にあった中村だが、02年にFA権を取得したあたりから徐々に歯車が狂い始める。この年のオフ、ニューヨーク・メッツと契約寸前までいくが決裂。結局、近鉄と再契約することになる。そして03年には右ひざを痛め、納得いくバッティングができなくなり、本塁打も23本に留まった。それでも中村は、「ホームランを捨てたらヒットはいつでも打てる。それでも僕はホームランバッターでいたい」とあくまでもホームランにこだわり続けた。だが、右ひざの状態は悪化し、シーズンが終了すると手術に踏み切るも、かつての豪快なフルスイングはなりを潜めた。

 その一方で、メジャーでプレイしたいという思いを断ち切れず、05年、ポスティングによりドジャースと契約を果たす。しかし、メジャーに出場したのはわずか17試合。5本しかヒットを打てず、本塁打は0本だった。つい先日、5月1日のヤクルト戦で日米通算2000本安打を達成した中村だが、「まだ5本残っている。日本だけの記録にこだわりたい」と、花束贈呈やセレモニーを辞退。そこには「アメリカでは何もさせてもらえなかった。メジャーで放った5本も思い出せない」という悔恨の念が込められていた。

 失意のメジャー挑戦から国内に復帰した中村は、かつて在籍した近鉄と合併したオリックス・バファローズに入団。しかし、相次ぐケガに泣かされ、わずか85試合の出場に留まり、打率.232、12本塁打、45打点の成績に終わる。そしてオフに大幅な年俸ダウンを提示されるが、これを受け入れず契約更改を断念。移籍先を探すも受け入れ先はなく、07年1月に自由契約となった。

 その中村に手を差し伸べたのが中日だった。テスト生としてキャンプ参加を求められ、育成枠での入団を果たす。その後、オープン戦で結果を残すと、開幕直前に支配下登録され、再び道が開けた。この年、打率.293、20本塁打、79打点の活躍を見せ、日本シリーズでも4割を超える打率をマークし、MVPを獲得した。