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中村紀洋、谷繁元信......それぞれの2000安打物語 (2ページ目)

  • 石塚隆●文 text by Ishizuka Takashi

 再び輝きを取り戻しつつあった中村だったが、08年オフにFAで楽天に移籍。度重なるケガで結果を残せず、野村克也監督(当時)から「ノリ(中村)は誤算だった」と酷評され、結局、10年オフに戦力外を通告され退団。トライアウトを受けることなく他球団のオファーを待ったが、11年のシーズンが開幕しても連絡はなかった。

「育成でも何でもいいから、野球だけは続けたい」

 さすがに中村のプロ野球人生もこれで終わりかと思われていた5月、横浜(現横浜DeNA)から獲得のオファーが届き電撃入団。実に、中村にとっては6球団目だった。

 二度の自由契約を経験し、移籍先が見つからないという失意の日々を送ったこともあった。それでも最後まで諦めることなく、わずかな可能性に賭けてきた。かつてはチーム内の和を乱す存在としてクローズアップされることもあったが、独特の個性があるのもプロの証明。常にホームランを目指していた中村のバッティングも、強烈な個性が光っていた。

 2000本安打の瞬間、二塁塁上で喜びに浸る中村に花束を手渡したのが谷繁元信(中日)だった。その谷繁も5月6日のヤクルト戦で2000本安打を達成した。

「打ったんだなという気持ちと、チームが借金8になったから、そっちの方が悔しい気持ちもある。(打った瞬間は)何か感じるかと思ったけど、いつもと一緒だった」

 そう語る谷繁の表情は、達成した喜びよりも試合に敗れた悔しさが滲(にじ)んでいた。捕手としては野村克也、古田敦也に次ぐ3人目。42歳4カ月での達成は、宮本慎也(ヤクルト)の41歳5カ月を抜き、史上最年長となった。

 遡(さかのぼ)ること25年前、島根・江の川高校(現・岩見智翠館高校)の強肩強打の捕手として、1988年のドラフト会議で大洋ホエールズ(現・横浜DeNAベイスターズ)からドラフト1位の指名を受け入団。1年目から開幕一軍を果たし80試合に出場するなど、順風満帆な選手生活をスタートさせた。

 だが、レギュラー定着には多くの時間を要することとなった。その原因となったのが、リードだった。肩とバッティングはすでに一軍レベルにあったが、首脳陣はリードに不安を残す谷繁を正捕手として起用することにためらいがあった。

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