いつか、再び...。1995年のオールスターで一度だけ観た「真夏の夢」 (2ページ目)
――1995年7月11日 テキサス州、ザ・ボールパーク・イン・アーリントン
息をするのも苦しい暑い日だった。球場周辺は午前中から人であふれかえっていた。「ノーモ!」。多くの人間がすれ違いざまに叫び、驚いて振り返ると「グレイト!」と親指を立て片目をパチっと閉じた。そこは熱狂的とは違う、アメリカ人が好む表現を借りれば「サーカスがやってきた」ような空間だった。いるだけで、しあわせな気持ちが抑えられなくなるのだった。
メジャーのオールスターはベスト・オブ・ベストが持てる力をぶつけ合う舞台で、この年の野茂の人気はベスト・オブ・ベストの中のベストといって間違いなかった。
それは、地元新聞を見れば一目瞭然だった。ザ・ダラスモーニングニュースはオールスター特別セクション版の一面に野茂の特大写真を掲載。英字見出しが並ぶ中に「ひでお」というひらがな3文字を見つけた時はどこか可笑(おか)しかった。フォートワーステレグラムは野茂を記者会見で取材するパンチ佐藤の写真まで取り上げ、その上で「日本のスポーツキャスターの石田ひかり(注・タレントで民放から特別派遣された)が記者会見で野茂に質問した。この夜の試合を100人以上の日本のメディアが取材する」という誤ったキャプションをつける混乱ぶりだった。それほど、この年のオールスターはアメリカのメディアにとっても初めてづくしの"お祭り"だったのである。
野茂がランディ・ジョンソン(マリナーズ)と並んだ2枚の写真(記者会見場のツーショットとフィールド上でのツーショット)は特に印象的だった。カメラの前ではまず笑わない野茂が実に素晴らしい笑顔を見せていたからだった。
当初、ナショナル・リーグの先発投手はブレーブスのグレッグ・マダックス(オールスターまでに8勝1敗、防御率1.64)とされていたが、ケガによる辞退を発表。代役に指名されたのが野茂(6勝1敗、防御率1.99)だった。
この決定はメジャーリーグとマダックスが、ファンやメディアに流れる空気を読んだのではないかと今も個人的には思っている。
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