【MLB】
田澤純一「レッドソックスの育成メソッドのおかげで復活できた」 (2ページ目)
―― 手術もそうですが、その後のリハビリが大変だと聞きました。
「手術した後は、曲げ伸ばしが全然できなくて......。普通に生活するのも厳しい状況でしたし、投げることなんて想像もできませんでした。このまま野球ができなくなるんじゃないかと本気で思いましたね。通常4カ月経つと、徐々にキャッチボールを始めてもいいそうなんですが、そんなことができる状態ではなかったですね。ただ、トレーナーが何度も医者と話し合ってくれて、焦らないようにゆっくりと時間をかけながら、少しずついい方向に導いてくれた。それが大きかったですね」
―― 今年、ヒジの状態が良くなったことで、これまでと違うボールが投げられるようになったことはありましたか?
「球種自体は変わっていないんですけど、自分の離したい位置でリリースできるようになって、思い切り腕が振れるようになりました。その分、打者もタイミングが取りづらくなったと思いますし、ボールに威力が出てきたなと感じることはあります。今までとらえられてきたはずのボールも、ファウルになったり、空振りが取れたり。ホームランを打たれたりすると、慎重になりすぎて、逆にコントロールを乱すことがあるんですが、ファウルや空振りだといい意味で開き直って投げることができる。そのことも好結果につながったのだと思います」
―― シーズン途中からとはいえ、メジャーに定着することができました。アメリカに来て4年、ここまでを振り返って思うことはありますか。
「いま思うと、あっという間の4年間でしたが、手術とかもあったので......。ようやくここまで来ることができたというのが、率直な気持ちですね」
―― 田澤投手がメジャー挑戦を表明したのが、新日本石油ENEOS(現・JX-ENEOS)に所属していた2008年。当時、ドラフト1位候補の選手がNPB入りを拒否してメジャー挑戦することが問題となり、日本のドラフト指名を拒否して海外のプロ球団と契約した選手は、帰国後、一定期間(大学・社会人なら2年、高校生なら3年)はNPBと契約できない、いわゆる「田澤ルール」が作られました。そのことで、プレッシャーを感じたりしたことはありましたか。
「もちろん行くからにはメジャーを目指していましたが、だからといって絶対にメジャーに上がらなければいけないという気負いはありませんでした。自分のやるべきことをやっていれば、結果はついてくるだろうと、そんな風に考えていました。とはいっても、不安はありましたよ。それまで神奈川を出たことがなかったですし、野球のスタイルも変わるわけですからね。ましてや、言葉も文化も違いますし......」
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