検索

【高校野球】センバツに出場する名門・崇徳はなぜ甦ったのか グラウンドも、寮も、意識も変えた再建の日々 (2ページ目)

  • 内田勝治●文 text by Uchida Katsuharu

【「ALL崇徳」に込められた師の遺志】

 藤本監督も捕手出身。亜細亜大時代は背番号2をつけて2年春のリーグ戦からベンチ入りしたが、公式戦に出場することはなかった。

「私はずっと神宮でブルペンキャッチャーでした。4年間、一度も試合に出ることなく、ひたすら投手の球を受け、彼らをどう導くかだけを考えていました」

 裏方としてチームを支えたことが、監督業に役立ったことは言うまでもない。そして、部長という一歩引いた立場から應武さんの指導や采配を目の当たりにできたことが、かけがえのない財産となった。

「試合をやっていても『そういう感じで采配するのか』と思うことはよくありました。應武さんは選手の調子の良し悪しをよく見ているんです。ただやみくもに相手のビデオを見て研究するのではなく、まずは自分たちの選手をどう導いていくか。そのうえで、こういうタイプのチームであれば、こういうタイプの投手を先発させるというのが自分のなかにあったんだと思います。『常に一手先を読みながら、その空気感を感じろ』とよく言われていました」

 しかし監督就任からほどなくして、應武さんの体を病魔が蝕んでいく。入退院を繰り返しながら、最後の采配となった2021年秋の広島大会は車椅子に座り、酸素吸入をしながらベンチ入りした。

「執念を感じましたね。そこまでして母校を甲子園に連れて行きたいんだという思いを感じました」

 秋の大会を終えると、授業後に應武さんを自宅まで迎えに行き、グラウンドまで送り届けた。体調が悪くて外出できない日は、練習後に電話をして選手たちの様子を伝えるなど、絶えず連絡を取り合った。

「練習試合を見ることができない日は、スコアの写真を送って今日はああだった、こうだった、こういう時はどうすべきか、應武さんならどうされますか、といった会話をほぼ毎日していました。最後まで監督としてのイロハを教えてくださいました」

 應武さんは翌2022年7月から総監督に退き、藤本監督が後任として復帰。ただ、夏の広島大会は準々決勝で敗れ、病床の師に吉報を届けることはできなかった。

2 / 3

キーワード

このページのトップに戻る