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「なぜ自分が...」 大阪桐蔭「森友哉世代」の主力・福森大翔が語る希少がんと闘う壮絶日々 (3ページ目)

  • 谷上史朗●文 text by Tanigami Shiro

2013年の夏の甲子園ではサヨナラヒットを放った福森大翔さん 写真は本人提供2013年の夏の甲子園ではサヨナラヒットを放った福森大翔さん 写真は本人提供この記事に関連する写真を見る「もう少し詳しく言うと、僕の2つの希少がんをあわせた呼び名に"カーニー・ストラキタス症候群"というものがあるんです。でも、ほとんどの人には馴染みがなくてピンとこないので、説明するときは『2つの希少がんで......』とか、『ジストで......』といった言い方をしています。

 1つでも10万人に数人というのに、2つ重なるのは何十万人にひとりとか、もしかすると100万人にひとりとか、そんなレベルになるのかもしれません。いま診てもらっているジストの研究をされていた先生も、これまでに3例か4例くらいだそうで、自分でも驚いていますし、なんで自分がそこに入ってしまったのかという思いです」

 発覚した時点で極めて深刻な状況であったことは容易に想像できる。ただ、本人の感覚は少し違っていたという。

「かなり珍しいがんだと説明を受けましたが、先生の話を聞いて、自分なりにも調べて、ジストは基本、手術で悪性腫瘍の部分を取れば......という感覚にもなって。あと、僕のSDHBという型は抗がん剤がなかなか効かないみたいで、効果があったというエビデンスがこれまでにないという話もあって。だから手術のあとは経過観察をしっかりして、体に負担がかからない生活をして、様子を見ることになったんです」

 父は元ラガーマンで、自身は野球。体力には自信があった。しかし、事は思惑どおりに進んでくれなかった。深刻度が一気に増したのは、手術で腫瘍を取ってから約2年後の23年12月。定期検査で、胃に前回同様の悪性腫瘍の再発が判明したのだ。

「腫瘍を取れば治ると思っていたのが、そうはならなくて......。再発はかなりショックでした」

 2度目の手術で胃を3分の1切除。術後は、抗がん剤を使用することなく、慎重な経過観察が繰り返された。

 しかし非情にも、翌2024年9月にリンパや肝臓への転移が確認され、がんのステージは4となった。人生の終わりが、現実のものとして目の前に一気に広がってきたという。

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  福森 大翔

【プロフィール】
1995年7月29日、大阪市旭区生まれ。小学3年生で野球と出会い、中学時代は大阪都島ボーイズ、高校時代は大阪桐蔭高校野球部に所属し文武両道に励む。立命館大学産業社会学部卒業後、大手ハウスメーカーに入社。2021年にがんの宣告を受けるも、2024年に入籍。現在に至る

著者プロフィール

  • 谷上史朗

    谷上史朗 (たにがみ・しろう)

    1969年生まれ、大阪府出身。高校時代を長崎で過ごした元球児。イベント会社勤務を経て30歳でライターに。『野球太郎』『ホームラン』(以上、廣済堂出版)などに寄稿。著書に『マー君と7つの白球物語』(ぱる出版)、『一徹 智辯和歌山 高嶋仁甲子園最多勝監督の葛藤と決断』(インプレス)。共著に『異能の球人』(日刊スポーツ出版社)ほか多数。

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