【選抜高校野球】横浜を日本一へと導いた村田監督の「執念の采配」 1球継投、超前進守備、伝令...
異例の行動だった。
5回終了後のグラウンド整備の時間。横浜・村田浩明監督の姿はブルペンにあった。高校野球の監督は、試合中にベンチを出ることはほぼない(選手がケガをしたときは除く)。3対1とリードしている状況で、なぜ村田監督はわざわざベンチを出て行ったのか。
選抜決勝で智辯和歌山を下し19年ぶりの日本一に輝いた横浜 photo by Ohtomo Yoshiyukiこの記事に関連する写真を見る
【指揮官が異例のブルペンへ】
理由はひとつ。レフトで先発出場していたエース左腕・奥村頼人が投球練習をしていたからだ。伝令の選手を行かすのではなく、自ら足を運び、直接声をかけるためだった。
「『この回(6回表)ピンチになったら行くよ。頭入れといて』と。決勝なんで。先はないんで。この試合を勝ち切るために監督が動くとなったら、選手に響くかなと。心の部分ですね」
とにかく悔いは残したくない。自分ができることはすべてやりきる。そんな思いが溢れているかのような行動だった。
その気持ちは6回表の守りに出る。四球と送りバントで一死二塁となったあと、4番の福元聖矢に対しての3球目を織田翔希が暴投。一死三塁としてしまう。走者が三塁に進んだとはいえ、まだ2点のリードがある。
さらに、横浜は後攻。1点もやれない場面ではないにもかかわらず、内野手に前進守備を指示したのだ。しかも、オンラインよりはるかに前の超前進守備。強打者で打球が速い福元が打席だけにリスクが大きいように思われたが、ここにも村田監督の気持ちが表れていた。
「(選手たちが)守りに入っていたので、逆に攻めることを意識づけさせたかったんです」
2ボール1ストライクからの4球目。織田が内角直球を投げ込みファウルを打たせ、カウント2−2と追い込む。前の試合までと同様、次の球も内角直球を続けるのか----と思いきや、そうではなかった。
なんと村田監督が動いたのだ。織田に代えて、左腕がマウンドへ。だが、バトンを渡されたのは、同じ左腕でも奥村頼ではなく、背番号18の片山大輔だった。なぜ、奥村頼ではなかったのか。
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著者プロフィール
田尻賢誉 (たじり・まさたか)
1975年、神戸市生まれ。学習院大卒業後、ラジオ局勤務を経てスポーツジャーナリストに。高校野球の徹底した現場取材に定評がある。『明徳義塾・馬淵史郎のセオリー』『弱者でも勝てる高校野球問題集173』(ベースボール・マガジン社刊)ほか著書多数。講演活動を行なっているほか、音声プラットフォームVoicy(田尻賢誉「タジケンの高校野球弱者が勝つJK」/ Voicy - 音声プラットフォーム)でも毎日配信している。