【選抜高校野球】二松学舎・市原監督が振り返る43年前、PL学園との決勝戦 「あの時の悔しさが今も残っている」 (2ページ目)
その大会で勝ち上がった早稲田実業は決勝で愛甲猛がいる横浜に敗れた。しかし、「甲子園のアイドル」が降臨したことによって、テレビ、新聞など多くのメディアが群がり、女子高生をはじめとする女性ファンが甲子園に大挙するようになった。
ここが2年以上続く「大ちゃんフィーバー」の始まりだった。その後4大会連続して、荒木と早稲田実業は甲子園に出続けた。
【目標は早実より先に負けないこと】
荒木と同学年の東京の球児たちは「打倒・早稲田実業」を目指したが、そのなかのひとつが二松学舎だった。
市原監督が当時をこう振り返る。
「荒木大輔との初対戦は、1年生の夏の東東京大会の決勝戦。早実の先発投手が大輔で、僕は途中から代打で出ました。中学を出たばかりの僕からすれば、あれだけ落差があってブレーキの鋭いカーブを投げるピッチャーは見たことがなかった。だから『カーブのいいピッチャーだな』というのが第一印象」
好投手であることを認めながらも、その夏の大ブレークを予想していなかった。
「甲子園に行けなかった僕たちは夏休みの間、静岡県で合宿をしていました。きつい練習をしたり強豪チームと練習試合をしたりしている間、大輔のいる早実はずっと勝ち続けていました。もちろん、決勝まで無失点の好投を続ける大輔もすごかったんですが、同じ1年生の小沢章一も活躍していたから、『一度も甲子園に行けないかも......』と思ったものです」
1980年秋の東京大会で、二松学舎は準決勝まで駒を進めた。
「僕らは神宮第二球場で修徳と戦っていて、7回まで勝っていたんですが、他球場で試合をしていた早実が勝ったという場内アナウンスが流れた瞬間、先発投手の僕は降板させられました。次の早実戦のために温存しようと監督が考えたからだと思います。でも、次のピッチャーが打たれて同点に......またマウンドに上がった僕が打たれてサヨナラ負け。その時から、『早実に勝ちたい、やっつけたい』という気持ちが強くなりました」
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