不祥事のチームを託され経営者から高校野球の指導者に 聖カタリナ・浮田宏行監督はなぜ1年半で甲子園へとたどり着いたのか? (3ページ目)
「強豪の松山学院にタイブレークの末に敗れました。公式戦でいきなり敗退したことで、チームがバラバラになりかけたのは事実です。自己中心的なプレーが多くて、いい結果が出ないときにはグラブやバットを投げたりすることもありました。そういうとき時は冷静に注意していきましたが、ときには選手とぶつかることもありました。自分の野球人生を振り返ったら、そんな態度は考えられませんでしたから」
浮田監督が目指すチームの形を選手たちにプレゼンし、そこに向かっていこうと諭した。しかし、指導者に対して不信感の残る選手たちの心をつかむのは容易ではなかった。そんななかで立ち上がったのがエースの河内康介だった。
「『いい成績を残したい』『自分さえよければ......』というチームのなかで、ひとり変わったのがエースの河内でした。春季大会で自分が出した押し出しのフォアボールで負けたこともあって、最後の夏に向けて覚悟を決めたように見えました。チームのために野球をやろうと思ってくれたようです。こちらに歩み寄ってくれました」
エースの変化を感じとった浮田監督は、コミュニケーションにも変化を加えた。
「まず私が河内に言いたいことを伝えて、彼の言葉で選手たちに話してもらうようにしました。そうしたらチームにまとまりが生まれ、河内もエースとしてものすごく成長してくれました。そのうちに、プロ野球のスカウトの評価もどんどん上がっていきました。もともとあった能力と、プロの評価が相乗効果となって5、6月以降にものすごく伸びましたね」
聖カタリナはその夏の愛媛大会、準決勝で川之江に敗れ、甲子園に出ることはできなかった。だが、150キロの速球を武器にチームをベスト4に導いた河内はその秋のドラフト会議でオリックス・バファローズから2位指名を受けた。高校生の投手の中では最高の順位だった。
「チームとしての、選手個人個人の成長を感じた数カ月でした」
新監督と先輩たちとの真剣勝負を間近で見ていた後輩たちは、翌年の夏、ついに奇跡を起こすのだった。
著者プロフィール
元永知宏 (もとなが・ともひろ)
1968年、愛媛県生まれ。 立教大学野球部4年時に、23年ぶりの東京六大学リーグ優勝を経験。 大学卒業後、ぴあ、KADOKAWAなど出版社勤務を経て、フリーランスに。著書に『荒木大輔のいた1980年の甲子園』(集英社)、『補欠の力 広陵OBはなぜ卒業後に成長するのか?』(ぴあ)、『近鉄魂とはなんだったのか? 最後の選手会長・礒部公一と探る』(集英社)など多数。2018年から愛媛新聞社が発行する愛媛のスポーツマガジン『E-dge』(エッジ)の創刊編集長
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