夏の甲子園を目指す大分高・岩﨑久則監督は1990年にオリックスから4位指名 土井正三、仰木彬、野村克也から薫陶 (3ページ目)
【ドラフト4位でオリックスに入団】
お世話になった新日鉄大分とすでに話はできていた。ただ、練習に参加してそのすごさは知り尽くしているだけに、発足間もない別の社会人チームへの入社を考えていたが、部長らの説得で翻意し、新日鉄大分に進む道を選んだ。
「社会人に入って2年目(1988年)からDH制が採用されました。高校ではエースで4番だったので、打撃も自信があって、1年目はふつうにピッチャーをやりながら打席に入っていましたが、2年目からは投げるだけになりました。そのタイミングで肩を故障したので、終わったなと思っていたんですが、当時の監督さんが『野手をやりながら様子を見よう』と言ってくれました」
非凡な打撃力を生かし、内外野を守りながら、野手として定位置も獲得。肩痛が癒えるまでの半年間、陸上部のように走ったことで下半身が安定したことも幸いした。投手復帰後も、登板の時はDHを外すなど、二刀流で活躍した。
「野手投げに近い、いま流行りのクイックモーションのほうが、疲労感がありませんでした。野手をやったことは、自分的にはプラス材料になりましたね」
4年目の1990年には、都市対抗初出場を果たした本田技研熊本(現・Honda熊本)の補強選手として、東京ドームのマウンドに上がった。その頃には、直球の最速も144キロほどになり、再びプロから注目されるようになった。
「もしかしたらドラフトにかかるかも、という噂を聞いていたので、チャンスがあるんだったらプロに行きたいですという話をしました。ただ、ドラフト当日は指名はないと思っていて、デートしていました(笑)。夜12時頃に家に帰ってきたら、地元の新聞社やテレビ局が数社来ていたので、それで指名を知りました」
最後まで熱心だったオリックス・ブレーブス(現・バファローズ)からの4位指名だった。1位の長谷川滋利(立命大)、3位の野村貴仁(三菱重工三原)はいずれも同い年。2位の戎信行(育英高)も含め、指名5人中4人が投手だった。
「長谷川のあのコントロールのよさはちょっと勝てんなと思いましたよ。野村も縦割れのいいカーブを持っていました。戎(信行/育英高)も高校生で『こんな球を投げるんか』と。もう中継ぎの敗戦処理から結果を出していくしかないと思って入団しました」
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