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夏の甲子園を目指す大分高・岩﨑久則監督は1990年にオリックスから4位指名 土井正三、仰木彬、野村克也から薫陶 (2ページ目)

  • 内田勝治●文 text by Uchida Katsuharu

 笑顔を浮かべながらも、野球の話になれば、真っ黒に日焼けした顔にその眼光が鋭く光る。プロで土井正三、仰木彬、そして野村克也から薫陶を受けた56歳は、押し迫った初めての夏へ向け、策士の一面をのぞかせた。

 生粋の大分っ子だ。小3から柔道を始め、小4から地元にできた少年野球チームへと入部。巨人戦を見ながら、長嶋茂雄や王貞治に憧れ、打撃フォームをマネする、どこにでもいる昭和の野球少年だった。

 中学では軟式野球部に所属し、3年で身長は175センチまでアップ。「必然的」にエースとなり、チームの屋台骨を支えた。

「ほかにもいい投手はいましたが、気がついたら自分が1番をもらっていました。3年生になって、最後支部予選で負けたんですけど、自分が投げた試合はそれまでは全部勝っていましたね」

 高校は勧誘に動いてくれた地元の大分高を選択。当時の監督は、岩﨑さんの素質を買い、高1の秋頃から、平日は社会人野球の新日鉄大分(現・日本製鉄九州大分)に練習参加させていた。

「その当時の社会人は金属バットだったので、フリー打撃やシート打撃で投げてもガンガン打たれました。僕は当時16、7歳だったので、相手はおっさんにしか見えないんですよ(笑)。こんなハイレベルの練習に参加していたおかげで、週末に高校へ戻ると、社会人とのレベルの違いがすぐにわかり、高校生は抑えられる自信がつきました」

 ノンプロの強打者たちとの対戦で着実に力をつけ、2年から主戦格として活躍。2年春、3年春と2年連続で大分を制し、九州大会でも準優勝、ベスト4と結果を残したが、1972年夏に全国制覇の経験がある津久見の牙城を崩すことができず、一度も甲子園に出場することはできなかった。それでも、高校3年間でプロも注目する右腕へと成長した。

「3年の夏前、スカウトにスピードガンを測ってもらった時は137、8キロでした。ただ、当時対戦した相手校の選手からは『絶対に140キロ超えていた』と言われました。部長からはプロ10球団が見にきていると聞いたのですが、通用しないという理由で全部断ったようです」

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