常総学院「木内マジック」の裏側...1987年夏の甲子園準優勝投手・島田直也を勇気づけた木内幸男の言葉 (4ページ目)
【伊良部秀輝ら名投手と対戦...試合ごとに成長できた】
その3回戦の相手は、これまた大会ナンバーワンとも評された伊良部(秀輝/元ロッテほか)を擁する尽誠学園(香川)でした。この試合も6−0と連続完封。真夏の甲子園での連投も、体力的なしんどさは不思議と感じませんでした。
当時の僕は、他の投手が先発して崩れた時など、連投であってもすぐに「自分が行きます!」というタイプ。今は投球制限もあってそうはいきませんが、そもそも投げることが大好きな選手でした。そんな僕を、監督も使いやすかったんじゃないのかなと思います。
「今度は伝統のある学校と当たりたいな」とか話していたら、準々決勝で顔を合わせたのは愛知の中京(現中京大中京)。先発投手はのちに巨人で活躍する2年の木村(龍治)です。
この試合は、さすがにそれまでの試合のようにはいきませんでした。初回、いきなりの先制パンチ。4点を取られ、「さすが古豪は違う」と脱帽です。のちに後輩と話をしていて知ったのですが、彼が言うには1回表を終えてベンチに戻ってきた時、僕がいきなり「来年頑張れよ」と言ったそうです。まったく覚えていませんが、さすがに負けを覚悟したんでしょうね。
ところが、試合はそのままでは終わらなかった。初回に僕は、左肘にデッドボールを食らいます。すごく痛かったけど、実はそのおかげで力みが取れたんです。1日半もらった休養で体も軽かったため、逆にエンジンがかかって球が走るようになりました。そのあとは得点を与えず、終わってみたら7−4の逆転勝利でした。
だから、今の選手にもよく言います。たとえ初回に点を取られても、「攻撃はまだ9回もある」と。慌てず1点ずつ返すつもりでいけば、それは自然と相手へのプレッシャーとなりチャンスにつなげることができます。タフな試合を乗りきるには、こうした考え方がすごく重要だと思います。
それにしても、夏の甲子園では好投手と次々対戦しました。常総のバッターは全体的に小柄で飛び抜けた選手はいませんでしたが、彼らを打ち崩せたのは、試合ごとに選手が成長していったからだと思います。
たとえば、のちにメジャーリーグでもプレーした伊良部に対応できたのは、その前に沖縄水産の上原を攻略できたから。上原はスピード、球のキレでいうとダントツでしたが、コントロールが今ひとつで球が適度に荒れていた。その球筋を見られたことが、次の試合でも活かされました。
そして、普段対戦できないようなチームと戦えるのが甲子園。格上に勝つことで自信をつけ、それが一気に成長につながっていく。高校生はいつ伸びるかわかりません。木内さんが言った「甲子園は選手を成長させてくれる場所」は、まさにそのとおりになりました。
中編<名将・木内幸男の「唯一の失敗」とは...1987年夏の甲子園決勝・PL学園戦を常総学院のエース島田直也が振り返る>を読む
後編<常総学院・島田直也監督の手応え「僕がいた甲子園準優勝時のチームに似ている」 名将木内幸男から受け継ぐ「準備と状況判断」>を読む
【プロフィール】
島田直也 しまだ・なおや
1970年、千葉県生まれ。常総学院高3年春にエースとして同校の甲子園初出場に貢献。夏の甲子園では準優勝と大躍進した。日本ハムファイターズを経て、横浜ベイスターズ(移籍時は横浜大洋ホエールズ。現横浜DeNAベイスターズ)で開花。1995年には中継ぎとして自身初の2桁勝利を記録し、1997年には最優秀中継ぎ投手のタイトルを獲得。1998年にはチーム38年ぶりの日本一にも貢献した。引退後は日本ハムの打撃投手、四国アイランドリーグPlusの徳島インディゴソックス監督、横浜DeNAの二軍投手コーチなどを歴任。2020年から母校・常総学院のコーチに就任し、同年7月より監督。2021年と2024年のセンバツに出場し、ともに初戦突破を果たす。
著者プロフィール
藤井利香 (ふじい・りか)
フリーライター。東京都出身。ラグビー専門誌の編集部を経て、独立。高校野球、プロ野球、バレーボールなどスポーツ関連の取材をする一方で、芸能人から一般人までさまざまな分野で生きる人々を多数取材。著書に指導者にスポットを当てた『監督と甲子園』シリーズ、『幻のバイブル』『小山台野球班の記録』(いずれも日刊スポーツ出版社)など。帝京高野球部名誉監督の前田三夫氏の著書『鬼軍曹の歩いた道』(ごま書房新書)では、編集・構成を担当している。
4 / 4