常総学院「木内マジック」の裏側...1987年夏の甲子園準優勝投手・島田直也を勇気づけた木内幸男の言葉 (2ページ目)
【初の甲子園で砕かれた根拠なき自信】
その間、熾烈なレギュラー争いのなかで僕の頭にあったのは、とにかく木内さんの野球を理解すること。木内さんは四六時中ブツブツとしゃべっている人で、それを聞きながら何が求められているのかをいつも考えていました。
でもあの独特の茨城弁、わかりたくてもわからない(笑)。いつもワーワーと吠えている感じで、だから聞き流す選手も多かったんですが、僕はニュアンス的にこういうことを言っているんだろうなと自分なりに解釈し、その積み重ねで木内さんの野球を吸収していきました。それができた選手が、最終的にレギュラーになったんだろうと思います。
2年秋に関東大会に出場し、準々決勝で敗れた常総は、翌年の第59回センバツ大会の補欠校になります。一度はあきらめた甲子園。ところが、大会直前に不祥事から出場を辞退する学校が出て、急遽出場が決定。思わぬかたちで夢の舞台に立てることになりました。
結果は、明石(兵庫)を相手に初戦敗退(0−4)。でも振り返ると、このセンバツ出場は僕にとって、そのあとの人生を左右するほどの大きな出来事でした。
全国のレベルを肌で知り、いつも自分が一番だと思っていた自信が、いかに根拠のないものだったかに気づかされたんです。
最後の夏に向けて、これじゃダメだとギアが入りました。春の経験がなければのちの甲子園準優勝や、ひいてはプロの門を叩くこともなかったのではないかと思います。
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