東京大学野球部・渡辺向輝「自分で答えを見つけるのが好き」。偉大な父・俊介にピッチングを学ばなかった少年時代 (2ページ目)

  • 門脇正法●取材・文 text by Kadowaki Masanori

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野球に塾に習い事、多忙な少年時代

ーー小学3年から始めた野球をずっと続けてきていますが、小学校時代の勉強と野球の両立はどのようにしていましたか?

 母親がものすごくフォローしてくましたね。平日は週3日塾へ通っていて、夕方の5時15分から始まるんですけど、5時までずっと友達と野球をしたあと、母親が塾の送り迎えをしてくれました。あと少年野球の練習が土日2日間ともあったんで、塾のテストとかぶった時には、テストは受けないで野球を優先したりしました。

ーー週末は野球優先というのは、渡辺家の教育方針的なものがあったんですかね?

 そこまではわからないですけど、「勉強だけやって、つまらない人間にならないように」とは両親からよく言われていて、自分でも勉強だけやっているのは気分的にもなんだかなという感じですし、小学生なので遊びたい気持ちが一番だと思うんで、勉強だけにはならないようにしていました。

ーーちなみにいつから塾に通い始めたのですか?

 塾は小学4年の途中からです。勉強以外にもいろんな習い事をやっていました。ピアノと水泳と、あと英会話や科学の実験をするようなところにも通いました。

ーー野球もあるし、塾もあるし、習い事もあるし......もう1週間の7日間が全部埋まってしまいそうです。当時はどう思っていましたか?

 もう毎日、何かしら予定があったんですけど、勉強の塾以外は自分が楽しんで行っていたので、全然つらくはなかったです。

ーー塾が一番大変だったんですね!

 はい! 大変でした(笑)。

ーーとはいえ向輝さんは千葉県に住んでいて、小学4年から塾へ通うということは当然、中学受験を意識していたのかなと想像します。中学受験はどこを受けましたか?

 本当は、開成中学へ行きたかったんです。あと渋谷幕張も受けましたね。落ちちゃいましたけど......。それで海城に行きました。

ーーそうなると、実際に進学した海城中学はちょっと不本意だったのでしょうか?

 当時はそうだったかもしれないですが、今は海城に入ってよかったなと思っています。やっぱり、場所が東京の真ん中(※新宿区、JR山手線新大久保駅から徒歩5分)にあって、それまでずっと千葉県から出たことがなかったで、東京のいろんなところを見られることもよかったかなと。あとは、やっぱり頭がいい人たちがいっぱいいて、そのなかで部活をやっている人たちもたくさんいたので、勉強と部活の両立を学べたと思うんです。

ーー海城での中学生活では、最初から野球部に入ろうと思っていたんですか?

 はい。小学生の時はピッチャーじゃなくて外野手をやっていたんですが、ずっとピッチャーをやりたいと思っていて。海城なら、なんとかピッチャーで試合に出られるかなと思って、中学1年からピッチャーになりました。

 海城中学の野球部は当時、全体練習はゆるかったんですけど、自主練は好きにやってよかったんです。グラウンドが広くてゲージも使えるなど、設備がよかったこともあって、けっこう遅くまでよく自主練していました。

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