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かつて「鬼」と恐れられた大垣日大の阪口慶三監督。今も闘志は健在だが、「厳しいだけじゃなくなった」

  • 元永知宏●取材・文 text by Motonaga Tomohiro
  • 大友良行●写真 photo by Ohtomo Yoshiyuki

 高校野球の世界には「鬼」がいる。

 筆者が高校球児だった昭和の時代には、いたるところに「鬼」と恐れられる指導者がいたものだ。愛媛県を例にとれば、宇和島東の上甲正典、帝京第五の一色俊作、松山商業には澤田勝彦。一色は松山商業で全国制覇を果たした名監督、上甲と澤田はその後、日本一にのぼりつめた。

史上初の昭和・平成・令和の3元号で勝利を挙げた、大垣日大の阪口慶三監督史上初の昭和・平成・令和の3元号で勝利を挙げた、大垣日大の阪口慶三監督この記事に関連する写真を見る 公立の進学校の野球部員だった筆者は、そんな鬼に関する話を先輩や関係者からよく聞かされてきた。広島の強豪校のOBは言う。

「僕の父親が宇和島東で上甲監督の後輩だったので、あいさつに行こうと思ったら、ベンチに来て『〇〇の息子はどれじゃ?』と声をかけられて......オーラというのか、迫力というのか、そういうものを感じた」
 
 練習試合中にもかかわらず、ミスをした主力選手をベンチで絞りあげる姿を見て、震え上がったという。

「うちの監督も容赦なかったけど、それよりも怖かった」

 1988年春のセンバツで初出場初優勝を遂げた宇和島東は甲子園常連校になり、その後、済美の監督になった上甲は甲子園で通算25勝を挙げた。宇和島東としのぎを削った帝京第五のOBは言う。

「全国でも名を知られた一色監督のもとで甲子園に行きたいと思った。先輩たちはみんなヤバかったし、嫌な思いもたくさんしたけど、なんとか続けられた。監督に初めて殴られた時は、『やっとオレのことを覚えてくれた』と思って、うれしかったね」
 
 このあたりの心情を部外者が理解するのは難しい。別の高校のOBは自身の体験をこう語る。

「とにかく監督が強くて、監督対選手という図式。『どうにかして監督に対抗したい』と全員が思うから、チームのまとまりもいい。もちろん、監督に殴られた時には『理不尽じゃないか』という思いも少しはあった。明らかに感情的になっている時もあったから。でも、殴るという行為の根っこには『甲子園に行かせてやりたい』というのがあるのが選手たちはみんなわかっていた」

 そんな昭和の野球が終わって30年以上が経った。

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