驚きの人事異動に「そんなことが起こるのか」。名将が挑む松山商の復活「古豪と言われてもなんの得にもならない」 (2ページ目)
【松山商の野球なんて存在しない】
大野監督は監督就任直後の6月、ある人物に面会を申し込んでいる。1982年から1988年まで松山商の監督を務めた窪田欣也さんだ。
「今治西にいた頃から、『窪田さんが監督を退任しなければ、上甲さんの宇和島東・済美の時代はこなかった』といろんな関係者が口をそろえていました。素晴らしい方だとお聞きしていたので、いつかお会いしたいと思っていたんです」
窪田さんは大野監督を前に、こんな助言を送ったという。
「大野くんな、『松山商の野球』を探すなよ。そんなもの、存在しないんだ。その時、その時の選手と監督がつくり上げてきたものなんだ。思うようにやったらいい。それが松山商の野球になっていくのだから」
一方、1996年夏の甲子園優勝監督である澤田勝彦さんからは、今治西の指導者生活をスタートさせた頃にこんなアドバイスを受けている。
「宮本武蔵の言葉に『観の目を強く、見の目を弱く』というものがある。『観の目』とは、日頃から選手を観察することで得られる考えのこと。『見の目』は見た目のこと。周りから『あそこはこういう作戦にすべきだ』とか起用法について言われることがあるだろう。でも、最後は自分の『観の目』を信じてやらないといけない」
松山商の監督を務めた両者の教えは、大野監督の指導者としての根幹を成している。伝統校ゆえ、さまざまな声があがることは承知している。だが、大野監督には「選手のことをもっとも理解して、最後に責任を持つのは自分」という強い自負がある。
【家族のサポートも得て改革】
赴任当初、大野監督の目に松山商の選手たちは「グラウンド以外のことをこなすので精いっぱいになっている」と映った。
「寮生(約20名)は体づくりのため決められた食事量があって、夕食のノルマをこなすのに時間がかかる。おまけに起床時間はかなり早朝で、ラジオ体操、掃除、朝食の準備をして、朝食も時間をかけて食べなければならない。前例にとらわれずに、生活面でもグラウンドでも『今、自分は何をすべきか?』を考えて実践していこうと話しました」
2 / 5