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怪物・松井秀喜を抑えた大阪桐蔭の「もうひとりのエース」。バッテリーにとって「ドラマのような試合」だった (2ページ目)

  • 田口元義●文 text by Taguchi Genki
  • photo by Kyodo News

 かたや背尾は、大阪大会で33回3失点。甲子園でこそ計7回4失点ではあるが、実際にボールを受けている白石には、「背尾のほうが調子はいい」という確信があった。

 つけ加えるなら、この決断には個人的な感情も少なからず介在していた。

「甲子園では背尾も先発しているんですけど、勝利投手はすべて和田だったんです。2年の夏に背尾が入寮してから同部屋でしたし、甲子園でもずっと一緒だったんで『1回は勝たせたいな』という気持ちはありました。長澤監督から聞かれたときは迷わず答えられましたね」

 仮に準決勝を勝利すれば、決勝は「勝ち運」に恵まれた和田が先発するだろう。背尾にとって「勝てない」というジンクスを断ち切れるのは、星稜戦がラストチャンスだった。

 大阪桐蔭入学時、「自分たちの代のエース」と精鋭たちが信じて疑わなかったのは、和田ではなく背尾だった。

 大宮中時代は軟式野球部に所属していたが、中学野球界では名の知れた存在だった。そして偶然にも同校は、大阪桐蔭の野球部部長である森岡正晃の母校でもあった。

「背尾は当時から本格派のピッチャーでした。『絶対にほかの高校には行かせたくない』と、井上(大)と同じくらい早い時期から目をつけていたんです。背尾も僕が先輩やということを知って『わかりました! お世話になります』と言ってくれました。投打のこのふたりが来てくれたのは、本当に大きかった」

 140キロに迫る威力のあるストレート。縦に大きく割れるカーブにキレのあるスライダーを駆使し、背尾は下級生時代から着々と場数を踏んでいった。

 しかし、新チームとなりエースナンバーを与えられたのは、成長著しい和田だった。長澤や森岡ら指導者の見立てでも実力は同等。「ダブルエース体制」で戦うプランは変わらなかった。和田が背番号「1」となったのは、2年秋の大会までの練習試合で背尾よりも少しだけ成績が上回っていたからだった。

 これが、ふたりの立場を大きく分けた。和田は初陣となったセンバツの仙台育英戦で、ノーヒット・ノーランの衝撃デビューを飾り、脚光を浴びた。背尾も力は評価されていたが、どうしても和田の「ノーヒット・ノーラン」という金看板の陰に隠れてしまっていた。

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