高校野球史に残る超ファインプレー。大阪桐蔭が強風をも味方につけて「東の横綱」に圧勝
大阪桐蔭時代に通算70本塁打を記録し、高校生ドラフト1巡目で2006年に中日に入団した平田良介は、高校で成長できた背景をこのように教えてくれたことがあった。
「指導者の力ももちろん大きかったですけど、選手一人ひとりの意識が違いました。野球留学で桐蔭に来る選手が多いし、プライドをもってやっていましたけど、『中学時代はこんな実績やった』とか、気どっているヤツはいなかった。辻内(崇伸/元巨人)もそうですよね。あいつ、僕らから見ても『めっちゃやってんなぁ』ってくらい練習しましたから。それがあったから、高校3年の夏に150キロを出せるまでになったんです」
平田と辻内に注目が集まった2005年、大阪桐蔭は準決勝でこの年連覇を遂げる駒大苫小牧に敗れたが、1991年以来となるベスト4進出を果たした。
2005年世代のスター選手が平田と辻内であれば、1991年は井上大と萩原誠がそうだった。当時はまだ無名だった大阪桐蔭において、関西の有力選手が集まるきっかけとなっていた井上にとって、最大のライバルは萩原だった。
大阪桐蔭がある大東市出身のふたりの自宅はわずか50メートルほどの距離で、同じ小学校に通っていた。学童野球チームのオール住道に所属していた井上は、ジュニアサンダースでプレーしていた萩原を当時から意識していたという。
「あいつ、小学生の頃からデカかったですから。僕はピッチャーをやっていたんですけど、結構打たれました。チームとしても負けることが多かったですね」
小学校に続き同じ中学校に進学したふたりは、大東畷ボーイズでチームメイトとなった。萩原は「3番・ショート」、井上は「4番・レフト兼ピッチャー」と、ふたりはチームの中心選手として日本一だけでなく、世界一も経験した。井上は少年時代と変わらず、大阪桐蔭に入学後も萩原をライバル視していた。
「僕は間違いなく、萩原という存在がいたことで頑張れたというのはありましたよね。あいつはどう思っていたかわからないですけど......」
照れくさそうに語る井上の想いを萩原に伝えると、「そうなんですねぇ」と懐かしむように頷きながら、当時抱いていた気持ちを吐露した。
「むしろ、僕がそうでしたから。『大には負けられへん!』って」
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