高校野球史に残る超ファインプレー。大阪桐蔭が強風をも味方につけて「東の横綱」に圧勝 (2ページ目)
中学でチームメイトとなった萩原を先導したのが井上だった。家が近所ということもあり、早朝に「一緒に走ろうや」と萩原を誘った。途中までは同じペースで走るも、最後は決まって競走となった。体育の授業がマラソンだと、ほかのクラスメイトは適当に流すなか、「僕らだけアホみたいに競い合っていた」と萩原が笑う。
「中学で同じチームになって、あらためて大の実力がわかるわけです。『おまえ、すごい選手やったんや!』って。ふたりとも真面目だったこともありますけど、僕から見ても大はよう頑張っていたなと思います」
その萩原が「鳥肌が立った」と驚嘆させたのが、1991年夏の甲子園での帝京戦である。
「澤村(通)がサイクルをやったあとの試合で、大のあれでしょ。あれはしびれましたね」
1991年8月19日。2年前の覇者で、この年も「東の横綱」と呼ばれていた帝京との準々決勝は、のちのドラマを暗示させるかのように、甲子園はうごめいていた。
この帝京戦が行なわれた第4試合開始時の風速は8.4メートル。太平洋上に接近していた台風12号の影響によって、甲子園球場上空には強風が吹き荒れていた。しかもこの日の風向きは、甲子園特有の"浜風"とは逆にレフトからライト方向に吹いていた。
先発したエースの和田友貴彦は、この風の強さを好意的に感じとっていた。
「上空の風がすごくて、フライが全部押し戻されるんですよ。自分にとっては、すごく投げやすかったですね」
キャッチャーの白石幸二も、3試合で平均得点9.7と抜群の攻撃力を誇る帝京打線封じに、風を利用した配球を組み立てた。
「4番の豊田(智伸)と5番の三澤(興一)は当然ですけど、前の試合でサヨナラホームランを打った稲元(智)とか、乗せたら怖いバッターもいたんで、右バッターに対してはインコース中心のリードを心がけていましたね。和田はコントロールがいいし、多少甘くなってもオーバーフェンスはないだろうって」
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